聞くは笑い、語るは涙の共同参画セミナー

県立新潟女子短期大学 石川伊織


そもそもの発端は、そろそろ県立女子短大でも共同参画セミナーを、という県生涯学習推進課からの打診であった。この事業は本年度で打ち切りだそうだから(省庁再編のあおりですかねえ……ブツブツ)、「そろそろ」が「とうとう」になるわけだが、われわれはそんなこととは知る由もない。教員が尋常ならず多忙な本学はスタッフが揃わないので……なんて言ってはいられなくなって、使命感に燃えて重い腰をあげたのだが、気になるのは近年の短大生の保守化傾向である。私が担当している本学の女性学の講義でも、これを学ぶと「かわいい専業主婦になりたい」願望が木端微塵に粉砕されるとわかるや、開講1ヶ月で受講生数は幾何級数的に2割まで落ち込むのである。単位にもならない1年間の連続講座がはたして維持できるか……

不安な思いを抱えながら(from『ルージュの伝言』)、2000年2月22日、昨年度のセミナー実施団体による報告会に出席すべく、私は東京へ向かった。印象的だったのは、どの成功例も企画段階からすべてを青年男女に任せ、教員は最終責任をとるだけ、という運営方針が貫かれていたことだった。これなら、学生をはじめとする青年の関心を1年間維持できるのではないか……と考えたのだが、報告書は丹念に読んでおくべきであった。大勢の青年を大人たちのカンパで東京まで派遣して発表に臨んだ和歌山大学の画期的な報告に感動していた私は、《学生・院生・社会人の青年男女からなる委員会を30回以上も開催し、時には深夜にまで及ぶ討論を繰り返した》旨の報告書の記述をしっかり見落としていたのであった。ああ! 明日は我が身とはこのこと。それからというもの、連日の激務がわれわれ県立女子短大のお調子者教員を見舞うのであった。合掌。

女子短期大学という性差別の温床を舞台に、青年男女の共同参画セミナーなどというものを展開するのは、実にもって困難を極める。何しろ、男女といいつつも、肝心の男性がいないのである。女性ばかりでことを進めるのでは問題だ。とはいえ、身近に男性がいない。さて、どうするか? 集めるしかないでしょう! でもどうやって? それが問題なんだよな……

まずは、県立女子短大の女子学生の組織化である。学生はいろいろ言ってましたね。

Q:なぜ、セミナーに参加しようと思ったのですか?

A1:石川先生に騙されたからです。

A2:文部省のお金で東京に行けるって聞いたからです……

オイオイ、そりゃないでしょ。私は騙してはいませんよ。「面白いからやってみない?!」と は言ったけど、本当に面白かったでしょ?! ま、「いろんな意味で」、ではありますがね。それに、報告会に参加するための旅費のかなりの額は私たちのカンパだよ。

というようなわけだから、まずはジェンダーの勉強。四年制大学でジェンダー関連のゼミもある、というような状況ではないので、すでに学習済みの学生を中心に組織を作るというわけにはいかない。身近な生活の中にジェンダーという大変な問題が潜んでいる。これに気づいてもらうための努力から始めなくてはならない。しかし、講義のような調子でやったのでは逃げられてしまう。だんだんとこういう方向に議論が向いてくるように、学生の自主的な討論を繰り返してもらって、時々教員が茶々を入れる、というような目論見で討論会をやってもらうことにした。学生の企画に任せた討論会のテーマは、「彼氏彼女を選ぶ理由」。それから「あなたが合コンに行く理由は?」。そして、これを話し合う相手を探しに行くという段取り。つまるところ、手近で男子学生が大量に生息していそうな新潟大学へオルグに行くのである。もっとも、行ってみたら本当に大量に男子学生がいるので(まさかこんなにたくさんいるとは思わなかった?!)、ビラを配るのも忘れて後ずさりした短大の女子学生……という伝説がうまれたのもこの時である。女子高から女子短大という進学コースが作り出すジェンダーバイアスの実 例である。

女子学生が自分の恋人を連れてくればいいじゃないかというのは甘い考えだった。まず、恋人がいない。いても来てくれない。それに、これはセミナーが相当進んで学生が問題意識を高めた後での話だけれど、恋人がいた女子学生の中には、セミナーの過程で2人の間がギクシャクしたりするカップルが相当数あったとか。なるほどなあと思わないでもない話ではある。女性の問題意識の高まりを抑圧するように恋愛関係が成り立っているわけだ。それを男性諸君は相当敏感に察知している。察知しているわけなのだが、その一方では、「なに? 女子短大? うふふ……」といって集まってきた男子学生もいないわけではない。秘密の花園ってなもんだ。何を考えているのやら。

男子学生といえば、新潟大学法学部の学生で柏崎市の女性行動計画の改定委員にもなっていたSさん。彼を仲間に引き入れたのは、思えば勝利への第一歩(?)であった。一般参加者を集めてのセミナーの本番へ向けて、準備も佳境に入っていた昨年秋頃、青年実行委員会の作業場兼食堂(何しろ知らない間に調理設備が整ってしまったもので……)または屯所(新撰組のハッピを着て作業している学生もいたりして)と化していた私の研究室で、関係諸方面への電話連絡に当たっていたSさんの電話口での言葉を聞いた短大の女子学生たちが唖然としたという一件は、けして忘れることのできない歴史的大事件であった。Sさん、電話口でこう言ったのである。「県短のSですが……」。オイオイ、いつから君は県立女子短大の学生になったの?! 県立女子短大はいつから男子学生を入学させるようになったの?! これは、正真正銘の本当の話。

セミナーの運営のためのホームページが私の研究室のホームページの下に開設されていたのであるが、ここでもSさんはじめ、同じく新潟大学の男子学生で名写真家Kさん、一般参加のKさん、Tさん、そして新潟大学の相庭ゼミの皆さんの大活躍が紹介されていた。これを見てくれた京都大学の院生から、真顔で私は質問された。「新潟の女子短大はいつから共学になった のですか」。共学になっていたら、いつまでも「女子短大」という名称ではないはずですよねえ。でも、青年実行委員会もわれわれ教員も全く違和感なく受け入れたのが、この、県立女子短大始まって以来の男子学生の出現であった。

次なる驚きは、実に学生諸君の討論能力の欠如であった。話し合いの間、学生たちはメモすら採らないのである。こういう場合はそれぞれの人の発言の要点をメモしていくことが、自分の意見をまとめる上でも、討論をかみ合わせるうえでも大切なのだが、そんな技術は誰も教えてくれなかったんだろうなあ。それに、私語の洪水である。とはいえ、よくよく聞いてみると、これが私語では全然ないらしいというのも驚きであった。たとえば、討論の過程で興味深いテーマが提出される。すると、これを参加者全員で共有するにはいたらないまま、あちらこちらで隣同士のおしゃべりの輪ができて、局地的に盛り上がってしまうのだ。その盛り上がりが、ときには発言者の声を圧するまでになる。ちょっとお待ちと教員が介入する。すると、はっとしたように会話が止まるのである。この間、発言者の言っていることを聞いている者はほとんどいない。何ということかと訝りながら訊ねると、今の発言者の意見に興味をそそられたけれども、それに対する自分の意見には自信がないから、隣の人に小声で話しかけて、それに賛同が得られるかどうか確かめているのだ、というのだ。だって、間違ったことを言ったら恥ずかしいじゃん!!

そりゃ、頓珍漢な発言をするのは恥ずかしいよ。でも、恥を忍んで自分の考えをぶつけてみるというのがないと、討論にはならないじゃないか。一人一人の考えを皆で共有して、検討したり論駁したり賛同したりするのが議論というものだ。みんなと違うのを恐れて、違いを明らかにしないまま付和雷同するのは、質の低い仲間関係だ。違いを明らかにできないのは、相手が違いを受け入れてはくれないだろうとあきらめているからだ。要するに、仲間を信じていないのだ。自分の意見と違っていても、それを尊重し、そう考える筋道をいっしょにたどってくれるような仲間には、これまで出会ったことがないのだろう。こうした仲間は、議論をして対立してとことん話し込むことをしなければ、見つけ出すことはできない。「多様なライフスタイルを認め合う」という目標が、その発端からこれでは、大丈夫かい? 私が学生たちに懇々と説いたのは、昔懐かしい中国の赤い本(たしか『毛沢東語録』とかいったけど)の中の一節であった。曰く、「喧嘩をしたまえ。そうすれば仲良くなれる」。

それにしても、青年実行委員会の面々は実にこまめに、実にまじめに喧嘩をしつづけた。胃も痛くなるわけだ。そして、これによって、自分たちのコミュニケーション能力の低さと固定観念の強大さにも気づかされたはずだ。思想的に相容れないと思っていた相手との喧嘩の原因を調べてみれば、何のことはない、ただの連絡ミスだった、なんていう例は枚挙にいとまがない。その程度にコミュニケーション能力は低いのだ。

県立女子短大の学生には、新潟大学受験に失敗したので短大に来たというコンプレックスを抱えるものが多い。こういう学生が新潟大学の学生と討論をする。自分の考えを表現するには、このコンプレックスを克服しなくてはならない。新潟大学の学生の側からすると、このコンプレックスを克服する過程は、突如始まる爆発みたいなものに思えただろう。途中までは自信なさ気だった短大生が、突如、「あなたたちの言っていることは頭で考えただけの口先ばかりのもので、その実やっていることはジェンダーバイアスの塊じゃないか。それに気づかないのか!」などと言い出すわけだから。しかし、短大生の側からすると、言いたいけど言えないというジレンマでうじうじと黙っていたのが、もう我慢できないというところで爆発しているわけだ。この変化は当人にとっては連続的なもので、突然変わるのではない。しかし、これは立場が違えば理解は不可能だろうなあ。こんな喧嘩を毎日毎晩やっていたのである。

だが、すごかったのはその後の展開であった。そこへ県内の他の私立大学の男子学生が乱入する。「セミナーのことを大学で友人に紹介するのだが、新潟大学や県短の学生と一緒にやるというだけで、みんな逃げ腰になる」というのだ。ここでは、新潟大学→県立短大という上下関係の構図が、県立短大→私立大学という構図で再登場しているのであった。このことは、それまでの喧嘩の中では誰も気づいていないものだった。この発言をきっかけに、全体の構造がさーっと霧が晴れるようにありありと見えて来た。実は、みんなコンプレックスを抱えているから、自信をもって語ることができずにいるのだ。だったら、解決しなくてはいけないのは、特定の個人の固定観念や頭でっかちに関わる問題ではなく、同年代の学生に思っていることを語れなくさせているコンプレックスの方だ。これもまた、大喧嘩を繰り返さなくてはおそらく見えてはこなかったものなのだ。

青年実行委員会の面々の急激な成長が始まるのも、大喧嘩の後だった。私が講師になり、私が作ったTVのCMばかりあつめたビデオテープを材料に、ジェンダーバイアスの話をした後の討論会で、大事件がおこる。

新潟大学の男子学生の何人かに発言を求めたところ、CM作家のマーケティングの視点の優秀さ、という発言が相次いだのである。女子学生側は、CM中の明らかな性差別的な表現をとりあげ、これをどう思うかと迫るのだが、男子学生側は、別にそれほど問題だとは思わない、と言う。とうとう、中の一人が、「だって、子どもを産んで飯を作るのは女の本能だろ」と言いだしたものだから、女子学生側は怒った……いや、本当の所は、一番怒ったのは私であり、そして、教員一同だった。あまりと言えばあんまりな男子学生の発言に呆然とする女子学生たち。その女子学生たちさえもがびっくりするほどの剣幕で、実にわれわれ教員が怒った。教育的配慮という点で大問題であるのは重々承知とはいえ、やはり怒ってしまう。やはり血がうずいてしまう。いかん、いかんと自制しようとは思いつつも、やはり眦を決している私。むしろ、女子学生のほうが私たち教師より冷静だったかもしれない。次の討論会の議題を「男とは、女とは――性別役割分担について」とすることが決められ、青年実行委員会の姿勢は急速に戦闘モードへと転じたのだった。恋人の選び方といったところを行ったり来たりしていた学生の討論会を、どのへんでセミナーの本題へと方向転換させるようか、と教員側は模索していたのだが、この一件をきっかけに始まった急展開はこうした心配を無用のものとしてしまった。この後ながらく、「女の本能」発言をした男子学生は「本能君」と呼ばれることになったのである。これもまた伝説の一つである。

9月になると、青年実行委員会の学習会が始まった。隔週の土曜日の午後、青年実行委員会が集まり、講師を招いて勉強をする。そして学習会終了後には毎回、10月後半から始まるセミナーのための準備を開始することとなった。アダルトショップで購入したという男性器の模型を取り出して正しい避妊具の装着法を講義する新潟大学医学部の佐山光子先生。この「教材」を購入した際には、渋るアダルトショップの店員に新潟大学宛ての領収書を切らせた(ということは研究費で購入!)というお話には、講義を聴いていた教員の方が大爆笑である。青年実行委員会の中には佐山先生のファンが激増した。県立女子短大の卒業生でもいらっしゃる小学校校長の庭野克子先生のお話では、制度上は可能だとはいえ、短大卒の教員免許で教師を続けること、さらには校長になることの困難さを、先生の実際の体験を伺うことでつぶさに知ることができた。青年実行委員会の面々も、女子短大という制度そのものが性差別なのだという思いを深くしたのであった。

勉強会はこうして進んだが、……問題はセミナーの準備だ。セミナーのタイトルは、「あなたの未来をシミュレーション」というものであったが、実は、これは現在の青年実行委員会のメンバーが考え出したものではない。これが短大の難しいところなのだけれど、テーマを構想した学生はもう2000年の4月には卒業してしまっていたのである。文部省への申請書類は4月にはできていなくてはならないが、実際のセミナーの主役になってほしい青年実行委員会の中核メンバーは、この時点ではまだ短大の1年生でしかない。4月になって新たに組織された委員会は、前の委員会が作った計画を自分たちなりに解釈して具体化しなくてはならないということになる。

当初計画は、自分たちの将来をシミュレーションして寸劇にでもしてみたら、という提案であった。職業選択やパートナーとの出会いは? 結婚するのかしないのか? 仕事と家庭の関係は? 戸籍は? 出産や育児は? 両親・親戚との関係は?……こうした選択の総合の上に各人に一生の生活スタイルが決まる。職業や収入、地域性や人間関係によって、ジェンダーバイアスのかかり方はさまざまだ。こうしたことをぼんやりと考えはしても、具体的に計算して生涯設計をする若者はそれほどいないのではないか? これをみんなで話し合いながら、具体的な事例として考え、自分自身の置かれたジェンダー環境を自覚化してもらおう、というわけだ。

しかし、「寸劇」と聞いて今年の学生はとんでもなくメジャーなものをイメージしてしまったらしい。劇って、TVドラマとか宝塚とか、ああいうのをやるの?! 私たち、そんなすごいことできないよ。ツレちゃん様みたいにかっこよくないし、演技力ないし……そりゃ、そうだ。だれもみんなにそんなすごい文芸大作なんか期待してないってば。でも、「寸劇」っていっても教員が考えているような「寸劇」はイメージしてもらえないし、宝塚を夢見る学生の皆さんにははじめから不可能と決めてかかられてしまっている。説明も説得も大失敗である。かくして、計画具体化のための議論は、9月早々にも難航をはじめた。

そこに登場したのが、「巨大人生すごろく」というもの。これもTVなんだけれど、大きなサイコロを転がしてゲストのお話を聴くっていうのをお昼過ぎに放送してますね。あれとすごろくをくっつけようという次第。すごろくの行程に登場する各種イベントが、ジェンダーを抉り出す仕掛けになっているというわけだ。まずは関心を持ってもらう。身近なところから始めてだんだんと問題の核心に入っていってもらう。それには「楽しい」こと「面白い」ことが大切だ。よって、スローガンは「とにかく面白いこと!」となる。

しかし、それほどすんなりとこのプランが通ったわけではない。この頃から大勢で参加してくれるようになった新潟大学教育人間科学部の相庭先生のゼミの面々は、当初、「それでいいのかよお」という顔で議論に加わっていた。こんな深刻な問題を考える必要があるのに、「楽しく・面白く」でいいのか!? というのである。それもそうだよなあ……DVだとか、採用差別だとか、寿退社だとかいう大問題は、当事者にしてみれば大変なことなんだ。とても「楽しく・面白く」語れるわけはないではないか。それに、もっとたくさん本を読んで、ちゃんとジェンダーの学習をしなくてはならないのに、みんな勉強が足りないぞ……。うんうん、そうなんだよね。学生としてはとても立派な意見だ。

でも、なんかずれてない? みんなはなぜジェンダーの勉強なんかはじめたんだろう。社会に性差別という悪が蔓延しているから、正義の味方である私は、自分の利害を無視して正義のために頑張るのだ! っていうのかなあ。それじゃあぼくらはみんなウルトラマンになって、たった3分しか闘えないけれど地球の危機を救うために宇宙からやってくるわけ? でも、それじゃ他人事じゃないか。ウルトラマンは正義の味方だけれど、地球人じゃない。地球のことはウルトラマンにとっては他人事だ。私たちがジェンダーを考えるのは、それで苦しんでいる人がいるからそういう人たちを救ってあげるため、つまり自分の問題ではなくて他人事として……ではないはずだ。私たちは事柄の当事者なんだ。

議論を聞いていた鈴木真由子先生から、ここで強烈なお言葉が飛び出した。みんなは、さっきから「一般参加者」って言って、これから応募してくる一般の人たちに何かを教えてあげるんだって思っているかもしれないけれど、お金にもならないし、大学の単位が認められるわけでもないこういう講座に、大切な休みの土曜日を何回も割いて自ら応募してくるような人は、みんな以上に問題意識が高くて、みんな以上に知識も経験も豊富かもしれないんだよ。教えてもらうのはみんなの方かもしれないんだよ。何かを教えてあげるっていう態度はよくない!

これは強烈でしたね。こらこら。まだ議論の途中だよ。3分経ったからって、シュワッチ! はないでしょ。ウルトラマン君!

というわけで、どうやらスローガンはもう少し過激になったようだ。「面白くって何が悪い!」。 ここで議論になっていた問題は、こう言い換えてもいいだろう。知識は勉強すれば得られるけれど、知識を得ただけでわかったことにはならないのが、ジェンダーの問題なんだ(本当はどんな知識もみなそうなんだけどね)。性差別はいけないなんて、今ではみんなが思っている。差別してもいいと公然と言える人がいるなんて、ちょっと考えられないだろう。でも、それなのに差別はなくならない。なぜなんだろう。差別するかどうかという個人の意識の問題ではなくて、そういう社会構造・制度が問題なんだ、と言う人もいるだろう。けれども、そういう制度を支えているのも私たちだ。むしろ、意識のうえでは差別はいけないとわかってはいるけれど、無意識のうちに差別してしまっているという事態こそ問題なんだ。

知識は大切だ。でも知識はそれだけでは何にもならないのだと考える必要がある。知識ではなく、意識の問題。しかも、意識というのは、意識している限りにおいて問題にできるのであって、無意識にやっていることを意識的にコントロールするというのはじつは大変難しいことなのだ、ということは、覚えておく必要があるだろう。自覚が必要なのだ。ジェンダー学習において「気づき」がテーマとされるのは、まさに自覚こそが課題だからだ。「楽しく・面白く」が支持されるべきなのは、自覚は強制するわけにはいかないという自明な理による。強制され たのは「洗脳」というのであって、「自覚」じゃないもんね。「面白くて何が悪い!」というのは、私たちはあくまで「自覚」をめざすのであって、どこぞのカルト集団みたいな「洗脳」には断固反対だもんね、ということだ。

とはいえ、「巨大人生すごろく」をセミナーで実際に展開してみせる準備は、じつに大変なものであった。直前の1週間は、私の研究室はほとんど工場と化していた。運び込まれた大型ビニールシートと、配線用の絶縁テープ。大量の画用紙とポスターカラー。新潟市の西の端にある新潟大学から、東の端にある県立女子短大へと新潟大学の学生が移動してくるのは大変なこ とだ。講義が終わってから来ると、私の研究室での集合は5時にも6時にもなる。それから作業が始まる。狭い研究室には常時20人からの学生が出入りする。すごろくの盤に相当するビニールシートにコマを書き込んでいる学生は、2つ向こうの大教室の机を移動させて作業中。研究室のコンピュータ2台はフル稼働で、パンフレットや資料の印刷。すごろくのなかで使うイベントカードに書き込むべき文章を作っている集団もいる。イベントカードに参加者が答えることを通して、各人のジェンダーバイアスが抉り出せるような内容の文章をひねり出さなくてはならない。これはとんでもなく大量の勉強が必要となる作業だ。ありきたりのイベントだとジェンダーバイアスが見えてこないのではないかと、わざわざ変な設問をしたり、いや、それはやりすぎではないかと議論になったり。

特に留意したのは、「知識より自覚を」という目標を達成するには、頭でっかちの優等生には答えられないようなゲームにすることであった。頭だけで考えるのではなく、体験してもらう。ただのすごろくではなくて、「巨大な」すごろくであるのも、ゲームの中で否応なく体を使わざるを得ないように仕向けるためだ。病気や怪我で半身不随というようなカードを引いた人には、実際に車椅子に乗ってもらう。妊娠しましたというカードを引いた人には、男女を問わず、妊娠体験グッズを装着して、臨月間近の女性の苦労を味わってもらう。とにかく、頭でっかちの徹底的な否定に基づいたゲームだ。

とはいえ、実のところ一番体を動かしたのは青年実行委員会だろう。ゲームが巨大で車椅子も実物。妊娠体験グッズは、臨月間近の胎児と胎盤と羊水と乳房の実際の合計重量と同じ重さがある。なにしろ、取扱説明書に、「腰の弱い人は装着不可」と書いてある。これを数セット借り出して運び込むだけでとんでもない労働である。ビニールシートは教室一つ分の面積があり、作成したイベントカードは150枚近く。夕方から始まって夜に至る作業中には当然お腹が減る。けれども短大の学生食堂はお昼時しか営業していない。近所のファミレスに通う? とはいっても毎日ではお金が続かないだろうし……というわけで、研究室の主である私は炊き出し係りである。額に汗して労働する。それでみんなで一つ釜の飯を食う。人間の活動の基本はこれですね。これをやっていれば頭でっかちになんかなりようがない。

参加してくれた市民の皆さんには、どうにか大好評の内に巨大人生すごろくは終了した。けれども、青年実行委員会内での意見の違いや誤解は、解消し尽くしたわけではない。反省会が深夜に及ぶ討論会になったこともあった。大学の行事日程の関係で、かならずしもみんなが一堂に集まって仕事ができる日ばかりではなかった。電話連絡がうまく行かないこともあった。メールも通じない。伝えたはずの伝言が伝わっていない。こうした苦労はセミナー終了まで続くことになる。

男女平等の先進国ノルウェーの事情を学ぶことで、これから必要な運動や学習を考えてもらおうと、私たちはノルウェーの男女平等オンブッドであるクリスティン・ミーレさんをはるばるノルウェーからお呼びしていたのであるが、実際、セミナー展開のドタバタとミーレさんの講演をどうやってリンクさせたらいいのかについては、私たち教員の中にも目算らしきものはなかった。しかし、当日の質疑と翌日の懇談会とを通して、青年実行委員会は、これまで自分たちの学んできたこと、やってきたことを説明し、疑問点を提示し、討論をする、という作業をちゃんとこなした。ノルウェーでも青年層の関心を組織していくのは難しいというミーレさんのお話には、われわれ教員の側は、どこでも大変なのだという思いを強くしたし、また、これだけの青年が自分たちの問題として平等の問題を考えるために集まっているという事実を、ミーレさんにも頼もしく思っていただいたようだ。

さてさて、このように書いてくると、私がやたらと大変な仕事をしていたようであるが、そう見えるのは、私が青年実行委員会と付き合う時間が一番長くなるような任務分担だったからだ。ノルウェーとの折衝にあたった教員は、為替レートと所得税とビザの関係で知恵を絞った。お金のやりくりで神経をすり減らした教員もいた。調査研究を受け持って、アンケート調査に全力投入した教員もいた。通常はセミナーの運営にのみタッチするはずの企画運営委員会も、全ての委員の皆さんが、広報やセミナー会場の確保、青年実行委員会へのアドバイスに携わってくださり、実は全員が実働部隊員だった。

広報活動にも力を入れた。新潟のローカルTV局にも取材され、何度か放送されたし、青年実行委員会はTV局に宣伝にも出向いた。地元新聞にも大きく取り上げられたし、県のルートを利用させていただいて、県内の全ての市町村と教育機関にセミナーのポスターを貼っていただいた。セミナー視察のために文部省から派遣された委員の方々からのお話によれば、マスコミをここまで活用した例は前代未聞だという。もっとも、県内では、新潟大学と県立女子短大の両方が関わっている催しの記事は、新潟大学の名前を先に出すのが常識だったらしく、文部省の委嘱をうけたのは県立女子短大の方であったのに、新潟大学の名前のほうが上に書かれていたりもした。これに敏感に反応して怒り出しのが青年実行委員会だったというのも、青年の自覚の高まりである。よくやった、よく言った!

実のところ、セミナーに関わった青年のかなりの部分は、すでに青年実行委員会のメンバーになっていた学生であった。前代未聞と評されるほどマスコミを動員しても、一般参加の皆さん にたくさん集まっていただくということにはなかなかならなかったのは残念である。しかし、こうして集まっていただいた一般参加の皆さんが、その後の報告書作成や教育プログラム開発の会議に積極的に参加して一緒に活動をつづけてくださっていることは、大きな成果だ。出来上がった交流の輪を今後も維持していこうという声はすでに出ている。ジェンダーをめぐるユースネット構想だ。巨大人生すごろくを出前して歩こうというプランもある。

自分たちの手で組織を作り、運動をおこし、人々に自分たちの考えを訴えていくというのは、民主主義社会に生きるための基礎体力といってもよい。選挙の投票率が下がっているのも、基礎体力の養成をしなければ民主主義を維持しつづけるのは難しいということのあらわれだ。こうした基礎体力養成教育がこの日本でまともに行われてきたかといえば、まことにお粗末の一語に尽きてしまう。今回私たちが試みたセミナーは、まったくの手探りでの運営であった。教員の側の状況理解と学生の側の理解に大きな溝があることを再確認して、両方が改めて驚愕したりもした。学生から逆に教えられたことも多い。それに、全てを青年実行委員会の主体性にゆだねるというのがこんなにも大変なことだったかという思いと、それをやりとげることのができたのも、信頼とそれに答える実力とを青年実行委員会のみんなが着実に身に着けていったからに他ならない。ジェンダーをめぐる議論は、自らの内に刷り込まれたバイアスの発見という側面を色濃く持っているから、本来は、教える側と教えられる側を固定的に区別したりはできない性質のものだ。頭でわかっているだけではどうしようもないという性質のものだ。お調子者のわれわれの1年間のこの右往左往が、世代を超えてジェンダーをともに学ぶ場を作ることに役立てばと希望する。そして、その芽はすでに生まれていると確信する。

(石川伊織)

最終更新日 2008/05/01


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最終更新日:2013/07/24