イギリスの作曲家ベンジャミン・ブリテン(Benjamin Britten 1913-1976)は、1956年1月の来日で初めて能に 接した(註1)。しかも、短い滞在のうちに『隅田川』を2度までも 観ている(註2)。非常な感銘を受けたブリテンは、 帰国後、『隅田川』のオペラ化に着手する。日本学術振興会の出版した英訳のテキストに基づくプロマー (William Plomer)のリブレットを得て(CR. xii)、オペラ"Curlew River"が初演にこぎつけたのは1964年のこ とであった(CR. viii)。
『隅田川』と"Curlew River"を比較するのは、思想史的な意味からも音楽と芸能の歴史および理論からも、き わめて興味深い。これらの多方面からの比較を遂行することは紙幅の余裕から言っても無理であるが、ここで は、1998年度前期に本学の比較思想論の講義で展開した議論を元に、主に詞章に見られる変容を比較しておき たい。
まずは、能の詞章と物語の展開を概観しておこう。登場人物は、シテの狂女とワキの渡し守、ワキ連の旅人、 そして子方の梅若丸の霊、以上4人である。文中には【 】で括られた番号を適宜挿入するが、これは後に "Curlew River"の章句と比較するための便宜的なものである。
名ノリ笛につれてワキが登場【1】、今日は訳あってこの地で大念仏が催されると告げる。ただし、その 「訳」はここではまだ明かされない【2】。続いてワキ連が登場。都から知人を訪ねて来た旅人である旨を告 げ【3】、道行【4】の後、隅田川のほとりに着く【5】。舟に乗せてくれとのワキ連の呼びかけに【6】、ワ キは早く乗れと答えるが【7】、人々の騒ぐ気配を聞きとがめてワキ連に尋ねる【8】。ワキ連は、都より下 ってきた「女物狂ひ」が狂う様を皆が眺めているのだと答える【9】。ワキは狂女の到着を待とうと言う 【10】(以上、能386-7)。
やがて、シテの登場となる。シテ「げにや人の親の心は闇にあらねども、子を思ふ道に迷ふとは、今こそ思 い白雪の、道行き人に言傳てて、行くへをなにと尋ぬらん」【11】。さらに、シテ「聞くやいかに、上の空 なる風だにも」、地謡「松に音する慣らひあり」【12】。シテ「真葛が原の露の世に」、地謡「身を恨みて や明け暮れん」【13】。謡い終わり舞い終わって、シテは身の上を告げる。都北白河に住んでいたが、一人 息子を人買いにさらわれ、東国に連れていかれたというので、跡を尋ねてさ迷っている、と【14】。これを 地謡が受ける。「千里を行くも親心、子を忘れぬと聞くものを」【15】。そして地謡の謡による道行となり、 シテが隅田川のほとりに到着する【16】(以上、能387-8)。
シテはワキに舟に乗せてくれと呼びかける【17】。ワキはシテにどこからどこへ行くのかと尋ねる【18】。 シテは都より人を探して下る者だと答える【19】。しかしワキは、「面白う狂うて見せよ、狂うてみせずは この舟には乗せまじいぞとよ」と拒む【20】。するとシテは『伊勢物語』を引いて、隅田川の渡し守ならば 「日も暮れぬ舟に乗れ」と言うはずであるのに、舟に乗るなとは、隅田川の渡し守とも思えない、と抗議す る【21】。ワキはシテの優雅さに心を動かされる【22】。シテは業平の名を挙げ【23】、都鳥の歌を謡う 【24】(以上、能388)。シテとワキの問答は続く。シテは見慣れぬ鳥のいるのに気づいて名を問う【25】。 ワキは沖の鴎だと答える【26】。しかしシテはまた『伊勢物語』の故事を引いて、なぜ都鳥と答えぬかと問 い詰める【27】。ワキは己の無風流を詫び【28】、ワキ「都鳥とは答へ申さで」【29】、シテ「沖の鴎と夕 波の、昔に帰る業平も」、ワキ「ありやなしやと言問ひしも、都の人を思ひ妻」【30】、シテ「わらはも東 に思ひ子の【31】、行くへを問ふは同じ心の」、ワキ「妻を忍び」、シテ「子を尋ぬるも」、ワキ「思ひは 同じ」、シテ「恋ひ路なれば」【32】と謡い交わす。続いて地謡が『伊勢物語』と家持の歌を交えて謡い 【33】、地謡「さりとては渡し守、舟こぞりて狭くとも、乗せさせ給え渡し守、さりとては乗せて賜び給へ」 と、シテの代わりに謡う【34】。ワキは先の「狂うて見せよ」との言葉を翻してシテを招じ入れ【35】、 シテとワキ連に向かって、この渡りは難所であるからと注意を促す【36】(以上、能388-9)。
舟は隅田川の西の岸を離れて東へ向かう。しばらくして、向こう岸の柳のところに人々が大勢集まっている のは何事かとシテが問う【37】。ワキは大念仏だと答え、仔細を語り始める【38】。その仔細とは、昨年の 今日3月15日、人買いが都から12歳の少年を連れてやって来たが、少年は旅の疲れから病を得てこの地に留 まり、人買いは少年を置き去りにして陸奥に向かったこと【39】。近在の人々が末期の少年を見て氏素性を 問うと【40】、少年は、都北白河の吉田の某の子で梅若丸と名乗り、ここまで連れて来られた次第を語り、 死後はこの道の傍に墓を築き、墓標として柳を植えてくれるよう懇願すると、念仏を唱えながら儚くなった こと、云々と【41】。これが【2】で語られなかった「訳」であった。舟の客たちに塚に詣でて念仏するよ うワキが勧めるうちに【42】、舟は東の岸に着き【43】、ワキ連は念仏に加わろうと申し出る【44】(以上、 能390-1)。
ワキはシテが舟から降りないのを訝り問いかけると、シテは落涙している【45】。下船を促すと【46】、シ テ「いかに舟人、今の物語はいつのことにて候ふぞ」【47】、ワキ「おう去年三月けふのことにて候ふよ」 【48】、シテ「さてその児の年は」【49】、ワキ「十二歳」【50】、シテ「主の名は」【51】、ワキ「梅若 丸」、シテ「父の名字は」、ワキ「吉田の某」【52】、シテ「さてその後は親とても尋ねず」【53】、ワキ 「親類とても尋ね来ず」【54】、シテ「まして母とても尋ねぬよのう」【55】、ワキ「思ひも寄らぬこと」 【56】と問答、シテは己がその死んだ児の母であることを明かす【57】。ワキは驚き、哀れがるのであった 【58】(以上、能391-2)。
ワキはシテを塚に案内し【59】、シテは塚に向かって嘆く【60】。地謡がシテを代弁し、「さりとては人び と、この土を返していま一度、この世の姿を、母に見せさせ給へや」と謡う【61】。地謡はさらに世の無常 を謡う【62】。ワキは、嘆いても甲斐なきことだから、念仏を唱えて後世を弔いなさいと、シテに勧める 【63】。が、シテはあまりの悲しさに念仏を唱えることもできない【64】。余人ならぬ母親の念仏をこそ死 者も喜ぶとワキに諭されて【65】、シテは鐘を手に取り【66】、念仏を唱え始めると、墓の中から念仏を唱 える子供の声が聞こえる。シテ「あれはわが子か」、子方「母にてましますかと」、地謡「互に手に手を取 り交はせば……」、幻に子供の姿が現れ、かつ消えして、やがてしののめの空がほのぼのと明け、あとは草 茫々の浅茅が原となるばかり【67】(以上、能392-4)。
この物語は"Curlew River"においてどのような変貌を遂げることになるだろうか。章句の対比をはじめる前 にまずは舞台上の地理を説明しておく必要がある。我々が当然の前提としている、西の京都から東の武蔵、 さらに下総(辺境の地)へという構図が、"Curlew River"では踏襲されていないのである。
舞台は図1のように構成される(PR. 2)。小さな円形のステージ(Raised circle)をオフセットさせて上に載 せた大きな円形のステージ(MAIN STAGE)が、演技の主要な舞台となる。この右下のベンチ状の弧が楽器奏者 の席であり、その奥がオルガン、恐らくは小型のポジティフ・オルガンである。これを平面図で示すと、 図2のようになる。
能舞台では必ず橋掛かりが下手奥から舞台へと伸びている。いかなる番組もこの舞台の上で演じられ、ワキ の常座もシテの立ち位置もすべて決まっている。したがって、本来能舞台には演目に即した東西南北は規定 され得ないと言うべきであろう。『隅田川』は、隅田川を西の岸から東の岸へと移動する舟の上での物語で あるが、舞台上のどちらが東でどちらが西かはそもそも問題にならないのである。
しかし、"Curlew River"ではこの舞台上に明確に方角が規定される(図3)。上手奥が西、下手前方が東、した がって上手前方が北となるが、北は同時に「もう一方の岸(NORTH and other bank)」でもある(PR. 4)。劇 中、合唱が「川は二つの国を分けて流れる。こちらには西の国。かなたには沼なす東の地(CR. 10, 19, 33, 79)」と繰り返し歌うが、この図で見る限り、川は北西から南東へと流れ、船はむしろ南の岸から北の岸へと 向かうのである。この歌を「川の歌A」と呼ぶことにしよう。
この変更は、物語の舞台を中世の日本から中世のイギリスないしはヨーロッパに置き変え、キリスト教の神 秘劇のスタイルを踏襲したことによって生じたものであろう。能においては西に明確な中心がある。能では、 都鳥の歌を引用して狂女が渡し守を責めるに及んで、渡し守は狂女に対する対応を変化させるが【35】 (能388)、それは狂女の古典の教養に都振りを見るからである。渡し守の態度の変化には西方の北白河が京都 という日本の中心であることが大きく響いている。これに対して、物語の舞台である東国はそこから離れた 辺境である。隅田川を越えるとそこはもはや陸奥への入り口である。東国から見ると、念仏によって死者が 送り届けられると考えられる西方浄土と京の都とが同一の方角にあたることにも注意する必要があろう。舞 台上には出てこない京の都が圧倒的な中心として西に位置しているのである。
しかし、中世のキリスト教世界に場所を移すことにすると、舞台は同じく辺境とは言え、西を中心として提 示することはできなくなる。狂女が語る身の上でも、「わらわの住めるは黒き山々の麓、遥か西方のかの地 に住めり(Near the Black Mountains there I dwelt, / there I dwelt far in the West,……CR. 29)」で あって、Black Mountaisもこの地と同様に辺境である。さらに、渡し守が舟の客に語って聞かせる物語の中 では、この地で一年前に死んだ少年が自らを、「僕は西の国境で生まれた("I was born", he said, / "in the Weatern Marches……")」(CR. 58)と語ったことになっている。西はどう見ても中心ではない。では中 心はどこにあるのか。もちろんローマである。南である。すなわち、狂女は西から東へ、辺境から辺境へと 向かっているが、舟は中心である南から異教徒の地である北へと向かうのである。最後の場面での舞台上の 十字架が象徴する亡き子の墓も、内側の小ステージの一番奥、舞台上の方角の設定では南側に設営されるこ とになる(PR. 14)。
しかし、もうひとつ考えられるのは、舞台に川を設定するときの彼我の思想の相違である。一例を出せば、 ジャコモ・プッチーニ(Giacomo Puccini)の歌劇『外套(Il Tabarro)』ではパリのセーヌ川が舞台である。 セーヌ川は舞台に対して平行に、つまり舞台全体が川で舞台奥に岸が見えるように設定されるのである。 ところが、『妹背山女庭訓』では舞台の中央が大きな川によって妹山と背山に左右に分断される。客席か ら見ると、川は舞台の奥へ向かって迫り上がって行くように見える。文楽でも歌舞伎でもこれが特別に不 思議な舞台設定とは見なされてはいない。こうした構図は緒方光琳の『白梅紅梅図屏風』にも見ることが できる。中央に川を置いて舞台を左右に分断するという日本的な舞台設定をしないのなら、そして、西の 方角からさ迷って来る狂女を舞台上手奥から下手前方に向かって登場させたいのなら、上手前方を北に設 定しなくてはならない。舟は南から北へ向かわざるを得ないのである。
"Curlew River"は、ラテン語の賛美歌を歌いながらの歌手および楽器奏者の登場と僧院長の説教に始まり、 劇の主要な部分が上演され、僧院長の説教の後、再びラテン語の賛美歌を歌いながら歌手および楽器奏者 が退場する、という三部構成を取る。もっとも、前後の行進と演説は全体からするとかなり短い部分でし かない。しかし、ブリテンはここを「ごく自然だが厳粛なスタイル(firmly naturalistic, although ceremonial style)」で演じるように、そして中央の主要部分は「典礼のように様式化された(as formalized as a ritual)」ものにするように要求している(PR. 5)。恐らく、能の入退場の有様を意識してのことであ ろう。しかし、"Curlew River"ではすでに歌手たちの登場以前から賛美歌はステージの裏で始まっており、 ここも劇の一部である。能の場合、鏡の間でのお調べの後、囃方と地謡が舞台に整列までの間は劇の一部で はあるまい。
男声ばかりの合唱8人(テノール3人・バリトン3人・バス2人)の間にはさまれて、狂女・渡し守・旅人・僧 院長の四人とそれぞれの従者(彼らは、1人が最後で子供の魂として歌う他は、劇中では歌わない)が歌い ながら登場する。打楽器・オルガン・ハープ・フルート・ヴィオラ・ホルン・コントラバスの奏者各1名は この行進の後について入場する。楽器奏者も含め全員が僧衣をまとっている。所定の位置に着くと、神の 恩寵の徴を今から演ずると僧院長が宣言する。その後、冒頭の賛美歌の旋律から派生した主題に基づく器 楽曲が演奏される中、「ごく自然だが厳粛なスタイル」から「様式化された典礼」へと雰囲気が転換され る。この間に、狂女と渡し守と旅人の3人はそれぞれの役の衣装を身に着ける。
ところで、"Curlew River"は仮面劇である。ただし、仮面を着けるのは狂女と渡し守と旅人の3人だけであ り、内側の小ステージ(Raised circle)で演技をするのもこの3人だけである。問題は、渡し守が仮面をつ けている点にある。能ではワキが面を着けることはありえない。面は人と神とを、現世の人と死者とを、 現実を生きる狂人とを区別する。そして、死者も狂人も現世の人より遥かに神に近い。狂女とは必ずしも 気の狂った人ではなく、むしろ神に乗り移られてあらぬことを言いかつ行う人と見なされ、それゆえに軽 蔑の対象とはならない。しかし、"Curlew River"では仮面は主要な登場人物と合唱とを区別するためのも のとなってしまっている。もちろん、狂女はテノールが歌うことになっているので、仮面をつけないと女 性でないのが判ってしまうという難点はある。しかし、これはそれほど重要な問題ではない。教会の中で は女性は歌わないというのがカトリックの掟であったから、このあたりは万人の了解のうちではあろう。 しかし、なぜ、主要な登場人物と合唱とが区別されるのか。
合唱を能の地謡に対応すると見なすのは、恐らくは正しくあるまい。まず、ワキにあたる渡し守も仮面を 着けているところからして、面を着けないことの意味が能とは異なっている。さらに、合唱は主要登場人 物とは別の旋律を歌って、登場人物たちの演技を支えたり、これと対抗したりする場面(たとえば、CR. 42) があるのも、"Curlew River"の特徴である。能の地謡はシテと対抗して別の旋律を歌うことはない。こう 見てくると、このオペラはむしろ、上演形態としてはギリシア悲劇に近いと言えるのではあるまいか。合 唱団はコロスであり、主要登場人物の数が3人というのも、最盛期の古代ギリシア悲劇に対応する。そうす ると、僧院長は重要な役を演じながら仮面をつけない点からしても、コロスの長にあたると見て良かろう。
さて、いよいよ物語の比較である。"Curlew River"のリブレットは『隅田川』のテキストの英訳から大き く外れているわけではない。能にはあるがオペラには無いテキストはあまり多くはない。多いのは、能 には存在しないテキストの追加である。以下では、能の詞章と対応するテキストを、先に示した【】付 きの番号で示すことにする。既述の『隅田川』の概観と対比して読まれたい。
僧院長の開式の演説に続いて3人の主要登場人物が舞台衣装に身を包むと、まず渡し守が名乗りをあげる。 I am the ferryman. / I row the ferry-boat / over the Curlew, / our wide and reedy Fenland river. / In every season, every weather, / I row the feree-boat.【1】(CR. 8)。能と対比すると、 より説明的であるのがわかるだろう。『隅田川』では「これは武蔵の國隅田川の渡し守にて候、今日は 舟を急ぎ人びとを渡さばやと存じ候」(能386)としか語らない。これに続いて最初の増補テキストが挿入 される。すでに翻訳して引用した「川の歌A」(譜例1)である(CR. 10)。渡し守はさらに言葉を継ぐ。能 に言う「大念仏」はここではToday is an important day,と訳される。しかし、能ではまだ明かされない 今日の大念仏の「訳」が、ここではすでにこの段階で一部明かされる。一年前の今日この地で葬儀があ って、それ以来この地の人々はその墓に詣でると病が治ると信じているのだ、というのである【2】 (CR. 11)。
ここに旅人が登場する。「末も東の旅衣……」が、ここでは「私は西から北へと向かう、辛い旅を重ねた 旅人」(CR. 14)と言いかえられる。北へ向かうという点に注意したい。旅人はキリスト教世界から北の蛮 族の地へと向かうのである。しかし、旅の目的は明示されない。同じフレーズを一部省略して合唱が繰り 返す(CR. 15)【3】。旅人はさらに、野を越え山を越えする辛い長い旅を歌う。能の「雲霞、跡遠山に越 えなして……」である【4】(CR. 16)。かくしてCurlew Riverの辺にたどり着くと、旅人はそこに渡し舟 を見出す【5】(CR. 17)。再び合唱が歌う「川の歌A」をバックに、旅人は渡し守に舟に乗せてくれと請う 【6】(CR. 19)。渡し守は乗船を促すとともに【7】、かなたの物音のことを旅人に尋ねる【8】(CR. 20)。 能ではこれに対する旅人の答えの後で初めて登場する狂女が、オペラではここですでに舞台裏からの声 として登場している。旅人は、Black Mountainから来た狂女を人々が見物しているのだと答える【9】 (CR. 21)。
狂女をcrazyと形容している点には注意が必要である。古来、日本語の「狂」は現代語で言うような精神 の疾患、ないしは病を意味してはいないし、差別の対象ともならなかったと考えられる。これは英訳し にくい観念であろう。狂をcrazyと訳し、狂女をMadwomannと訳すと、狂人がなぜ一貫して合理的な判断 や教養に裏打ちされた言葉を発するのか理解できないということになる。"Curlew River"がこの事態の 合理的説明に窮しているのは明らかだ。旅人の答え【9】の途中に割り込む狂女の歌(能ではまだこの段 階でも狂女は登場していないから、これに対応する能の詞章は無い)の、不安定な音程で上行し下行す る落ち着きの悪い旋律(CR. 21)は、狂女の精神の揺れを示している(譜例2)。また、繰り返される Let me in! Let me out! (CR. 23)という矛盾する言葉も、All is clear but unclear too.(譜例3) (CR. 26)という文言も、本来の能の詞章には無い非合理的な言説であり、これを狂女に語らせること で、オペラ"Curlew River"は、狂女の「狂」の本質を、矛盾律に抵触するような不可解な言説を発す る不安定な精神作用と理解したのだと言えよう。
ところで、物語は、渡し守もこの狂女の「狂」を見たいということで、狂女が声だけでなく姿をも 舞台の上に見せるのを待つことになる【10】。狂女の不可解な歌と、他の登場人物および合唱の 「彼女は来る」「狂女を見たい」という歌の交錯がしばらく続き、曲調の高揚をみた後、やっと 狂女が登場する。能の「げにや……」の謡の訳は、Clear as asky without a cloud / may be a mother's mind, / but darker than a starless night / with not one gleam, not one, / no gleam to show the way.である。そして、すでに引用したAll is clear but unclear too,が続くが、 こうなる理由は、love for my child confuses me: だからである【11】(CR. 25)。「子を思ふ道 に迷ふとは」の訳ではある。しかし、「狂」も「迷う」も現代語に言う「狂気」を意味しないので あるから、ここには能からオペラへの内容上の大きな転換があるだろう。すなわち、子への愛が私 を混乱させて、私の頭の中では矛盾律が崩壊してしまった、というのである。
続く「聞くやいかに……」は大きく意訳され、Where is my darling now? / Where? where? where? / Shall I ask these travellers? / Does he know his mother's grief? (CR. 26) となる。能では地謡の「松に音する慣らひあり」がシテのせりふを引き継ぐが【12】、オペラ ではここに合唱の発する反省の声が入る(CR. 27)。すなわち、これでも人々はこの哀れな女性 を笑うつもりだろうか、と歌うのである。狂女の登場の場面は「真葛が原の露の世に」で閉じ られるが、オペラでもこの翻訳に基づく合唱でこの場が閉じられる【13】(CR. 27)。この合唱 の旋律が、以後伊勢物語を引用する際に必ず現れて全編の骨格を成すことになる旋律である点 に注意しておこう。これを「都鳥の旋律」(譜例4)と名付けることにする。
さて、狂女は己の身の上を語る【14】(CR. 29)。これを「千里を行くも親心……」の訳に基づ くテキストで合唱が受ける【15】(CR. 32)のも、能の構成と同じである。しかし、能の場合【11】 での狂女の登場は観客の前への登場であって、渡し守らがいる隅田川の岸にはまだ到達してはい ない。そこで、【16】の道行が必要となる。オペラではすでに【9】で舞台裏から狂女の声は登場 していて、【11】で観客の前に登場するということは同時に渡し守らの前へ姿を現すことでもで ある。したがって道行の必要はなくなり、これに対応する詞章が欠落することになる。その代わ りに挿入されるのが、Will her search be at an end / here, at the Curlew River, / now she has reached the Curlew River? (CR. 33)という旅人の意味深長な歌でる。この歌は物語 の結末を暗示する。直前の狂女の歌に出てきた彼女の探している息子というのが、一年前の今 日この地で死んだというその子ではなかろうかという暗示である。
再度繰り返される「川の歌A」をバックに、狂女は渡し守に舟に乗せてくれと頼む【17】(CR. 33)。 渡し守は、どこから来てどこへ行くのか言わなくては乗せるわけにはいかないと言い【18】 (CR. 34)、狂女はこれに答えるが【19】(CR. 35)、渡し守は、面白く狂って見せなくては乗 せないと言う【20】(CR. 35)。ここでは「狂」がfoolと言いかえられている。オペラではこ の後に、狂女と渡し守の押し問答と、狂女の「狂」を見たいという合唱が続くが、これは能 には無い。これに続く部分は、能では、なぜ早く船に乗れと言わないのかと、狂女が『伊勢 物語』を引いて渡し守を責め【21】、これに渡し守が狂女の都振りを見出し【22】、狂女が 業平の名を挙げて【23】、都鳥の歌を引用する【24】という展開になるのだが、オペラでは 若干の異同が見られる。まず、狂女は渡し守をIgnorant man!と罵る【21】(CR. 38)。狂女の madとcrazyに対して渡し守のignorantである。私が高貴な女性であるにもかかわらずそのよう な振る舞いは無作法である、というのである。これに渡し守が、大袈裟な物言いよと答える のに対して【22】(CR. 39)、狂女は初めて「いにしえの高名な旅人」の故事を引き【23】 (CR. 39)、都鳥の歌を歌う【24】(CR. 39)。
都鳥の歌は次のように訳される。"Birds of the Fenland, / though you float or fly, / wild birds, I cannot understand your cry. / Tell me, does the one I love / in this world still live?" この歌が先の「都鳥の旋律」(譜例5)に乗せて歌われる。この旋律は延々 と舟が出るまで、変形されながら続く。あの鳥はなんという鳥かとの狂女の問いに【25】 (CR. 40)、ただの鴎よと渡し守が答えると【26】(CR. 41)、ここが名にし負うCurlew River であるなら「タイシャクシギ(curlew)」と答えるべきを、と狂女が歌う【27】。『伊勢物語』 という誰もが知る古典を下敷きにしているがゆえに現実の地名を用いて物語を構成し得た能 とは異なり、そのような下敷きの無いオペラでこのあたりの物語展開を再現するにためには、 鳥の名から川の名を取ってくるしかなかったのだということが、この問答から判る。ここで 初めて、渡し守は狂女の教養の高さに感じ入り、態度を変化させる【28】。これ以後、彼は 狂女に向かってLadyと呼びかけるようになる。
この後【33】までは、家持の歌に基づく地名の読みこみを除けばほぼ能と同様の内容を、「都 鳥の旋律」をカノン風の展開しながら歌い継いでいく(CR. 42)。旅人と僧院長と合唱が「彼女 を乗せてあげよう」とこれもカノンで歌うと【34】(CR. 48)、渡し守は、心はさ迷っているが、 彼女は自分の探しているものが何かを知っている、と歌い、狂女にLadyと呼びかけつつ舟へと 招じ入れる【35】(CR. 48)。難所であるから気をつけよと渡し守が人々に告げると、出発であ る【36】(CR. 49)。
ハープとコントラバスのグリサンドが短9度の間隔で3オクターブを越える上行下行を繰り返し て、舟の揺れを表す。これに乗って旅人と僧院長と合唱が、「川は東西の国を区切り、人と人 とを分断する。渡し守よ、舟を漕げ。不幸が離れ離れに分け隔てた者たちを近づけるために (Culew River, smoothly flowing / between the Lands of East and West, / dividing person from person! / Ah, Ferryman, / row your ferry-boat, / bring nearer, nearer, / person to person, / by chance or misfortune, / time, death or misfortune / dividied asunder!)」(CR. 51)と、能には無かった詞章を歌う。この旋律は、舟が向こう岸に着いた後 にもう一度、しかしハープとコントラバスのグリサンド無しで歌われる(CR. 65)。これを「川 の歌B」(譜例6)と呼ぶことにしよう(CR. 51)。「川の歌B」は能の『隅田川』には無かった思想 を作品に付け加える。能では、辺境をその外の未知なる陸奥から区切るだけのものであった川 は、オペラではそれを越えた象徴的な意味を持つことになる。静かに流れているだけの川は人 と人とを分けるのである。時が分け隔てた者たち、死が分かった者たち、不運が仲を裂いた者 たち、彼らは一見穏やかに流れるかに見える川の彼岸と此岸とに取り残されているのである。 そうだとすれば、川は単に地理的に場所を区切るものであるだけではなく、逆行させることの できぬ時を区切るものでもあり、生と死とを分かつものでもあり、したがってこの世と冥界と の間の川でもあることになる。不運はそれほどまでに人と人とを分かつのである。渡し守は、 彼岸と此岸を結ぶ仲介者の役割を担うことになる。渡し守自身が宗教的ないしは神的な意味を 持つ登場人物であることになる。後に、北から来た人買いは異教徒であることが明らかにされ るが(CR. 56)、渡し守は異教徒とキリスト教とをつなぐ宣教師という役割も担うことになる。 そもそも神秘劇というものが、劇の形で神の恩寵を上演して観せるという方法で民衆を教化す るものであってみれば、劇こそは民衆と神との媒介者であり、したがってその中での渡し守こ そ、まさにこの劇の中心的な人物であることになる。
さて、旅人が渡し守に、対岸に集う人々について尋ねると【37】(CR. 54)、渡し守は今日が大 切な日(Today is an impotrant day)であるわけを語り始める【38〜41】。この物語の内容はほ ぼ能と同じである。しかし、これに続けて能には無い詞章が挿入される(CR. 61)。渡し守は、こ の少年は聖者で、墓の土は万病を癒すと人々が信じている、それどころか、少年の魂を見たと主 張する者もいる、と語るのである(The river folk believe / the boy was a saint. / They take earth from his grave / to heal their sickness. / They report many cures. / The river folk believe / his spirit has seen.)。これこそいかにも神秘劇というべき章句である が、すでにこのあたりからして、母子の間での主客の逆転へ向けて伏線が張られている。この逆 転こそ、『隅田川』と"Curlew River"を分ける決定的な相違であるのだが、これについては追っ て詳述することにしよう。
渡し守が舟の中の人々に墓に詣でて祈りを捧げるように勧めるうちに【42】(CR. 63)、舟は岸に 着き、渡し守は下船を促す【43】(CR. 64)。再び「川の歌B」が旅人と僧院長と合唱で歌われ (CR. 65)、旅人は今夜はここに留まってその子のために祈ろうと歌う【44】(CR. 67)。渡し守 は狂女にも下船を促すが、彼女が泣いているのを見て、なんと優しい心根かと語りかけ【45】 (CR. 68)、再度下船を促す【46】。しかし、ここからの両人の問答が能とは異なってくる。すで に述べたと同じことを聞き質されるのが渡し守には面白くない。いちいちの問いかけに、I told youと断ってから答えているのは、それはもうすでに教えたはずだぞ、という苛立ちの現れであ る。しかし、その子の名を尋ねられると【51】(CR. 70)、渡し守は子どもの名は知らないと答える のである。重ねて尋ねる狂女に、渡し守はOh, how should I know?と困惑する。彼の父はBlack Mountainsの貴族だという話だが、その名前までは知らない(CR. 70)と言うのである。渡し守はい らいらした様子で演じるよう指示されている(PR. 14)。能では、氏素性から子供の名前まで渡し 守に語らせることで、事の真相が狂女にも明らかになるのだが、オペラでは登場人物の固有名は 最後まで誰一人として語られることはない。この一年の間に親も家族も訪ねてこなかったことを 確認して初めて、狂女はその子が自分の子であることを納得するのである(CR. 72)。一同は口々 に驚きを表す。この合唱も能には無い。能では、驚きはワキの渡し守一人が語るのである【58】。
これ以後、能ではシテの言葉が減って、シテの演技の重点が地謡やワキの謡に合わせての舞へと 移っていくのに対して、オペラではこれ以降、テキストの挿入が極端に増大する。事実の発覚以 後のテキストの総量は能では全体の30%ほどであるのに、オペラでは(前後の行進や僧院長の説教 を除いた)芝居の中心部分の45%に達する。このほとんどがオペラ台本での挿入であり、合唱であ る。内容的には、まわりの人々の感情の吐出であったり、狂女の感情や行為についてのまわりの 人々からの説明であったりする。要するに、能が言葉を切り詰めて舞で表現しようとしている事 柄が、すべて言語表現で語られていくのである。
狂女は都鳥にこと寄せて我が子の死を嘆き悲しみ、これからどうしたら良いかわからないと叫び、 私の心を繋ぎ留めてほしいと訴える(CR. 75)。僧院長と合唱は「川の歌A」を歌い、これをバック に渡し守が「あの少年がこの狂女の息子であったとは誰が思っただろうか、可哀想な人よ」と歌 えば、旅人も「この狂女があの子の母であったとは」と歌う(CR. 79)。狂女ははじめて登場した ときの不安定な旋律でLet me in ! Let me out! と繰り返す(CR. 81)。以上はみな能には存在し ないオペラでの挿入である。
渡し守は、私が墓まで案内しようと申し出【59】、旅人と僧院長と合唱が、「さ迷いつづけたあ なたの足取りが、息子の墓へとあなたを導いたのだ」と語りかける(CR. 82)。この合唱に対応す る章句も、この合唱に乗せて歌われる渡し守の案内の言葉も能には無い。狂女は「我が子に逢い たい一心で葦深い東の国までやってきたが、この地上にはもはや私の歩むべき道はなくなってし まった」と歌う(CR. 85)。この個所は、「今まではさりとも逢はんを頼みにこそ……」【60】の 自由な訳と解して良いであろう。続けて狂女はO, good people, open up the tomb / that I may see again / the shape of my child,と歌う【61】(CR. 87)。能のテキストそのままの訳である。 だが、我々がこの言葉を聞いても、これを文字通りに取ったりはしないであろう。死んだ我が子 に逢いたいという気持ちが言わせる比喩であると解釈するのが普通である。しかし、この言葉は ブリテンらには相当に恐ろしく響いたらしい。演技についての註釈には、この個所にShe turns to monks, who all turn away in horror.と指示されているからである。なるほど、本当に墓を 暴いたならそれはホラーである。
現世の無常を謡う「残りてもかひあるべきは空しくて……」の地謡は省略され、その代わりに、 「彼女の希望であった息子は逝き、彼女は一人取り残された、その彼女が泣いている」という僧 院長と合唱の掛けあいが挿入され(CR. 89)、泣くばかりで祈ろうとしない狂女を咎める渡し守の 歌に続く【63】(CR. 90)。「母はあまりの悲しさに、念仏をさへ申さずして、ただひれ伏して泣 き居たり」という、シテが自分のことを三人称で語る部分は【64】、Cruel! / Grief is too great. / I cannot pray, / I am struck down. / Here, on the ground, / all I can do is weep. (CR. 91)という狂女の直裁な感情の発露に置き換えられる。これを、能の渡し守に代わっ て旅人が諌め【65】(CR. 91)、狂女も祈りに加わるのであった【66】(CR. 92)。
こうして、舞台は大念仏ならぬキリエの大合唱となるのであるが、渡し守と旅人が歌う祈りの言 葉の中で、すでに伏線が張られていた「逆転」が起こる。二人は「すべて聖人、すべての殉教者 のため、神聖にして栄光に満てる永遠の御座にある者のために(And, O, to the numberless, / to the holy and glorious saints / to the holy saints and martyrs, / all the company, / holy and glorious, / there, there in the blessed / abode of eternal peacefulness, / in the abode of eternal happiness,)」祈ろうと歌う(CR. 98)。しかし、この祈りは直ちに天 使とキリストへの慈悲の願いに逆転する。この詩行に直接に続けて、彼らは「All angels, pray for us. / Pray for us, all angels. / Christ have mercy upon us」と歌うのである(CR. 101)。 此岸を超えた彼岸にまします聖者への祈りであったはずものが、直ちに慈悲を垂れ給えという願 いに転ずる。彼らは死んだ子を悼んで祈っていたのだろうか。それとも、あわれな彼ら自身の救 いを求めて祈っていたのだろうか。もし後者であるなら、子は彼ら自身の救いのためのだしでし かない。死せる子への祈りには偽善の影が忍び寄りはしないだろうか。
能の場合、事態ははっきりしている。生者は死者の成仏を願って祈るのである。祈りによって成 仏するのは死者であり、我々は死者のために念仏を唱えるのである。祈りは献身であり、この献 身によって救われるのは死んだ息子であり、あとに残るのは、息子の亡霊を見た母と、その感激 が過ぎ去った後の荒涼たる浅茅が原である。献身のエクスタシーの後に来るのは無常であわれな る現実である。ここには、生者の世界と死者の世界との間の決定的な断絶がある。この断絶が根 拠になって献身がなりたつ。この断絶が成り立たないなら、献身の結果は己の利得となる。こう なっては献身は献身たり得ない。祈る生者と祈りの対象である死者とはどこかでつながっており、 オペラの渡し守と旅人の祈りがそうであったように、死者への献身は己の成仏・己の救いを求め ての祈りへと転じてしまうであろう。しかし、生者と死者の間の断絶が決定的であるなら、生者 の祈りはどうやって死者へと届くのであろうか。断絶を前提としながら断絶を超える何かが無く てはならなくなる。こうして否応無く奇跡が要請されることになる。我が子が成仏しきれていな かったからであるにせよ、あるは仏の慈悲のゆえに我が子の幻が現れたにせよ、いずれにせよこ こには奇跡が働いているのでなくてはならない。
キリスト教もまた、此岸と彼岸の決定的な断絶の上に成り立つ宗教であった。したがって、祈り が祈りとして天上の神に通じるために奇跡が要請される。しかし、キリスト教は神の子イエスの 受肉と十字架上での受難という一回限りの奇跡によって、奇跡を制度化したのであった。かくし て、神の子イエスを信じ、その受難に感謝することを通して、断絶無しには成り立たない祈り・ 献身と、断絶があっては成り立たない神による祈り・献身の受納とが両立することになる。この 両立によって、先の渡し守と旅人の祈りの形が可能になるのである。こうした祈りによって救済 されるのは、祈りの対象である子ではなく、祈る母自身である。
あるいはむしろこう言えるのかもしれない。母の祈りによって亡き子が救済されるのではなしに、 祈る母自身が救済されるという矛盾ないしは母子間での主客の逆転は、彼岸と此岸の絶対の断絶 に絶望しつつも、これを架橋する神の愛を信ずることによってはじめて成り立つのであるから、 真正のキリスト教徒であるためには、否応なくこの断絶と架橋の論理を自覚しなくてはならない のだ、と。彼岸と此岸の断絶は『隅田川』の物語世界の中でこそ厳密ではあるが、実際の日本仏 教の伝統の中では必ずしも深刻に自覚されたわけではなかった。特に浄土教以降の、死ねば皆仏 になるという思想は、この断絶を無化しかねない。そうなると、献身が献身として成り立とうが 成り立つまいが、現世利益のためにひたすら祈るという、およそ宗教性からはかけ離れた態度が 仏教の名の元にまかり通ることになるだろう。
しかし、母の祈りが神に通じるというだけではなしに、母が、そしてその場で祈る人々が、さら にはこの神秘劇を観る人々までもがすべて救いに与かることが可能なのはどうしてなのだろうか。 その秘密は、子がまさに「子」であるという点にある。こうして展開する祈りの大合唱のさなか に、死んだ子の魂が姿を現す(CR. 108)。姿を現した子の魂は、舞台に現れてからずっと、ラテン 語で賛美歌を歌いつづける。Is it you, my child? (CR. 114)という母の問いかけに、子の魂は 初めて英語で答える。「心安らかにあなたの道をお進みください、母上。死者が蘇るその幸いな る日に、再び天国でお会いしましょう(Go your way in peace, mother. / The dead shall rise again / and in that blessed day / we shall meet in heaven.)」(CR. 116)。そして人々に向 かっては「神が皆さんとともにありますように(God be with you all)」(CR.117)と祝福の言葉 を述べるのである。なぜ子への祈りが救いになるのかといえば、死んだ子がまさにキリストであ るからに他ならない。子はまさに子であるがゆえに、この狂女の子でありながら同時に神の子・ イエス・キリストなのである。それは死者の世界から復活して万人を救う、救い主キリストなの である。原作の能で示された大念仏の後の荒涼たる浅茅が原とは異なり、舞台は神の恩寵に満ち 溢れた救いに支配されて終わる。能の語るのは世の無常であった。ブリテンが語るのは無常な世 を支配する神の恩寵である。
二つの作品の主題が大きくかけ離れているのは、以上の対比から明瞭である。劇作法の点でも両 者は大きく異なっていた。しかし、何よりも大きな相違は、単なる劇作品に終わらない総合芸術 としての能とオペラとで、それぞれをひとつの作品として統一する原理がまったく異なるという 点であろう。
能のテキストは、それだけ単独に取り出して文学として鑑賞するには堪えないような内容しか持 っていない。日本と中国の古典文学から美辞麗句を引いてきて組み合わせただけのものである。 現行曲のいくつかでも読んでみればこのことはすぐにわかる。テキストは能を芸術として統一す る役割を果たしてはいない。では、音楽はどうだろうか。音楽が劇の主要な要素ではないことも、 舞台を見れば一目瞭然であろう。オペラに見られるような、その作品に固有のメロディーやリズ ムや和声があるわけではなく、能の音楽は数種のフレーズをいくつもの曲で組み合わせて使って いるのであって、音楽の自立性は著しく低いのである。
そうであるなら、能の本質はどこにあるのかといえば、それは恐らくシテの舞であろう。能『隅 田川』では、物語がクライマックスに達した後、詞章が著しく減少し、もっぱら舞台はシテの舞 でもって盛り上げられていく。このことは以上の拙論でも触れたところである。能は、すべての 要素が舞に向かって収斂していくのである。
これとは対照的に、オペラ"Curlew River"の統合原理はもっぱら音楽である。これは、オペラが 音楽を中心に構成される芝居であるという伝統の上にブリテンが作品を作っているということで もある。
実例を示そう。全体は導入と退場の際の同じ賛美歌で前後を固められ、シンメトリーとなってい る。この中間の劇の主要部を循環するように、先にいくつかの譜例で示した主題が展開される。 しかも、これらの主題とそれに付された詞章は密接に関連している。『隅田川』では同一の詞章 の繰り返しは、シテやワキの言葉をすぐ地謡が繰り返すといった場合を除いてはほとんど出てこ ない。これがオペラのテキストでは、原作にない数多くの挿入テキストの繰り返しという形で、 音楽上の主要な主題と結びついて重要な役割を果たす。しかも、各主要登場人物には、それぞれ 固有の旋律と伴奏が割り当てられているのである。すなわち、ワーグナーに始まる主導動機の技 法がここにも見られる。渡し守は動きの少ない旋律で、これにはホルンの特徴的な伴奏が伴う (譜例7)(CR. 8)。旅人は上行して下行する三連符を含む主題を持ち、コントラバスの低音とハー プの三連符による分散和音の伴奏が伴う(譜例8)(CR. 14)。狂女の主題は上行と下行を繰り返す不 安定な音程と三連符からなる旋律で、これにはフルートの伴奏が伴う(譜例9および2)(CR. 25)。 しかも、狂女の主題の不安定な音程は、フルートによる都鳥の鳴き声の模倣の冒頭の音程と同じ 上行完全4度である。リブレットの文章についての考察が中心の本稿では充分に論じる余裕はな いが、これらの主題相互の関係にまで踏み込めば、さらに興味深い結論が出てくるであろう。し かし、オペラが音楽を中心に構成されている点で、舞に収斂する能と大きく違う構造になってく ることはこれだけでもわかるだろう。
ブリテンが『隅田川』を2度も観て感激したのはわかる。しかし、"Curlew River"は、内容的に も構造的にもかくも異なった作品として完成した。彼がライナー・ノーツに寄せた文章の中で 述べているところによれば、演能を見て彼が感銘を受けたのは、単純だが感動的なストーリー であり、省略された様式であり、緊張度の高い習熟を重ねた演技であり、美しい装束であり、 語りと謡いの絶妙な組み合わせ等々であったようである。そして、これらはどの国の歌手でも 俳優でも学ぶべきものだと考えた。彼のオペラ化の意図はその辺にあった。しかし、物語から 日本的な特色を取り去るために中世のヨーロッパに舞台を移しはしたが、物語の主題を変える つもりはなかったようだた(註3)。そうであるとする と、様式性や上演スタイルを踏襲しストー リーも踏襲するつもりで、出来上がったものはストーリーの点でも様式の点でも、まったく異 なったものであった、ということになる。
ブリテンがここであげている能の特徴なるものは、しかしギリシア古典悲劇とも共通する点が 多いことは指摘しておいても良いだろう。そしてまた、ギリシア古典悲劇の復興を目指してル ネサンス期のフィレンツェで始まったのがオペラのそもそもの発端であったことも重要だろう。 あるいは、ブリテンは日本から学んだつもりで、ヨーロッパのオペラの伝統の基本的な部分に 立ちかえったのだとは言えないだろうか。
ところで、そもそもの主題である「失踪した子と狂乱の母」というテーマには、両者で相違す る点は無いのであろうか? おそらくは、全ての地上の情愛の関係が超越的な絶対神の「神の 愛」のもとに収斂するキリスト教世界であるからこそ、死せる「母の子」が受難せる「神の子」 となることが可能であり、神の子が復活して母を救済することが可能になるのである。Go your way in peaceと子が母に呼びかけられるのは彼がキリストだからである。全ての地上の情愛が 神のもとに集約されるのであるから、天国で相見えた時にも母子の関係が特権化されることは ありえない。こうした愛と救いを前提にした母の愛とその愛ゆえの狂乱とは、テキストの表層 における現れ方はともかくとしても、能の『隅田川』と共通するところは以外に少ないのでは あるまいか。『隅田川』において狂女が特別な地位を獲得しているのは、狂女の教養のゆえで はなく、死せる子の母という特権性のゆえだからである。ここでもまた、彼我の差異が目立つ のである。
もとより、この小論は能の歴史や特性はおろか『隅田川』についてさえ充分なことを論じるに 足るほどのものでもなく、オペラについても不充分なものでしかない。特に今回は詞章に重き を置いたが、音楽的な観点や所作や舞の観点からも分析する必要はあるだろう。それに、ブリ テンが内容を変える意図はなかったと言っているにもかかわらずこうまで違った作品になった とすれば、ブリテンが下敷きとした日本学術振興会の英訳の信憑性をも疑ってみる必要もあろ う。問題に対しては、稿を改めて答えを出すことにしたい。
2013/07/24