1942年の作品『文字禍』(註1)で、中島敦は「文字の霊」について 語っている。
アッシリヤのアシュル・バニ・アパル王の治世第20年目の頃、粘土板の図書館で毎夜ひそひそと話す怪しい 声がする、という噂が宮廷でささやかれるようになった。文字の霊が夜な夜な喋っているのではないか、と いうのだ。アシュル・バニ・アパル王は老博士ナブ・アヘ・エリバを召して、この未知の聖霊についての研 究を命じた。博士は図書館に日参して文献を調べるうちに、奇妙なことに気づいた。「一つの文字を長く見 詰めている中に、何時しか其の文字が解体して、意味の無い一つ一つの線の交錯としか見えなくなって来る。 単なる線の集りが、何故、そういう音とそういう意味とを有つことが出来るのか、どうしても解らなくなっ て来る。……(中略)……単なるバラバラの線に、一定の音と一定の意味とを有たせるものは、何か? こ こ迄思い到った時、老博士は躊躇なく、文字の霊の存在を認めた」(註2)。 老博士の調査によれば、文字の聖霊の数は地上の事物の数と同じくらい多く、そのうえ、野鼠のように仔を 産んで増えるという。「『文字ノ害タル、人間ノ頭脳ヲ犯シ、精神ヲ麻痺セシムルニ至ッテ、スナワチ極マ ル。』文字を覚える以前に比べて、職人は腕が鈍り、戦士は臆病になり、猟師は獅子を射損うことが多くな った。……(中略)……獅子という字は、本物の獅子の影ではないのか。それで、獅子という字を覚えた猟 師は、本物の獅子の代りに獅子の影を狙い、女という字を覚えた男は本物の女の代りに女の影を抱くように なるのではないか。文字の無かった昔、ピル・ナピシュチムの洪水以前には、歓びも智慧もみんな直接に人 間の中に入って来た。今は、文字の薄被(ヴェイル)をかぶった歓びの影と智慧の影としか、我々は知らない。 近頃人々は物憶えが悪くなった。之も文字の精の悪戯である。人々は、最早、書きとめて置かなければ、何 一つ憶えることが出来ない。着物を着るようになって、人間の皮膚が弱く醜くなった。乗物が発明されて、 人間の脚が弱く醜くなった。文字が普及して、人々の頭は、最早、働かなくなったのである」 (註3)。秘密を悟られた文字の霊が老博士を放っておくわけがな い。博士は、ニネヴェ・アルベラの地方を襲った大地震の際、自宅の書庫の中で、崩れ落ちる書物=粘土 板の下敷きとなっ て圧死したのである。
これは、言霊思想に毒された神秘主義の物語でも、文明の進歩に対する復古主義者の反動的なぼやきでも ない。むしろ重要なのは、文字とは「影」なのだという指摘、文字はヴァーチャルなものだという指摘で ある。これを敷衍していけば、リアルな事物を「線の集まり」として抽象化する「文字」がバーチャルで あるように、それを分節化された「音の集まり」として抽象化する言語さえもがバーチャルだ、という結 論には容易に達しうるであろう。つまり、我々の行う意識活動というものは、そもそもがヴァーチャルな 記号操作なのである。意識の発生と仮想の成立とは同時であるはずだ。そうだとすれば、老博士ナブ・ア ヘ・エリバの言う「歓びも智慧もみんな直接に人間の中に入って来た」昔というのは、実は彼の幻想でし かない。それは、どうしようもなく低劣な現実から逆照射された理想の過去、想定されたに過ぎぬ過去で ある。このような「昔」を想定すること自体が、すでに、言語というヴァーチャルな記号の作用である。
だが、「どうしようもなく低劣な現実」という認識はどこからくるのか? 「現実」が確固たるもの・自 明のものとして把握されていたからこそ、「言語」あるいは「文字」というものの仮想性が把握されたは ずではなかったろうか。しかし、この仮想性の把握の結果、「現実」というのがこうした「仮想性」を持 つ毒=言語・文字によって毒された世界として現象してきてしまった。つまり、「現実」はけして確固た るものでも自明のものでもなくなってしまったのである。実際には、現実とは、ありうべき「理想の過去」 によって再度逆照射されることで我々の前に現れてくる、それ自体がヴァーチャルな「現実」に他ならな い。現実と仮想との間は厳密に区別することが可能である、という「常識」はもはや通用しないのである。
あらゆる議論の最初に、以上のことだけは確認しておきたい。すなわち、我々は「現実」という名の仮想 世界に生きているのである。この「現実」から、仮想ではない現実を再構成することができるのか、とい うのが、問われなくてはならない問題である。
以上のことを確認したうえで、本題に入ろう。
マンガやアニメーションの美少女キャラクタに入れ揚げる一群の青少年がいる。入れ込みやすい人たちを 称して「青少年」と言うのなら、少女である青少年や大人になってしまった青少年もいるのであるが、こ こにまで踏み込むと問題が拡散してしまうので、まずは普通の意味での「青少年」を考察の対象に据える ことにしよう。マンガの紙面やTVのスクリーン、あるいはコンピュータ・ディスプレイといった2次元平 面上に映し出される美少女に入れ込むこの状態を、「2次元コンプレックス」、略して「2次コン」と言う。 要するに、「マンガ/アニメ・オタク」である。
しかし、「オタク」というのは元来が差別用語である。本論の主題とも関連するが、中森明夫が作り出し た「オタク」なる差別語は「ロリコン・ファン」を意味していた。彼は、この用語でもって「ロリコン・ ファン」を徹底して攻撃し、これに「ロリコン・ファン」ではないと自称するマンガファンの多くが同 調する、ということがかつてあった(註4)。マンガ・ファンの中 の一部の特殊で変態的な『ロリコン・ファン』なる連中のおかげで、オレたちマンガ・ファン全体が変態 だと思われてる――これは許せない、というなんとも陰湿な差別行動である。しかし、いわゆる自称「健 全な」マンガ・ファンたちが「不健全」な「ロリコン・ファン」を差別するのは、実は、マンガ・ファン 全体がマンガを読まない層からは不健全な者とみなされ、差別されているからでもある。事実、好きで大 量のマンガを読んでいるにもかかわらず、そうでない振りをする人々はたくさんいる。彼女ら・彼らに言 わせると、マンガが好きだと公言することは「カミング・アウト」するに等しいのだという (註5)。差別される者が差別を再生産するという構造がここにはある。したがっ て、「2次元コンプレックス」というのも差別用語となりうる。実際、命名という行為は、自他を区別し て、他の側にレッテルを貼ることである。「2次元コンプレックス」の背後には、自らを「2次元コンプ レックス」ではないと認識している一群の――それも多数派の――人々がいるはずだ。
だが、自分たちを「2次コン」だと自認する人々の間でも、「2次コン」とは何かについての見解の相違が ある。最も広いであろう定義は、「マンガやアニメーションが好きな者」というものだ。しかし、こうな るとマンガをよく読む少年少女から大人まで、みな2次コンだということになってしまう。「好き」が嵩 じるとキャラクタ・グッズを集め始めたりするのであるが、それを2次コンと言うのだとすれば、コレクタ と区別できなくなる。集められるグッズが3次元のフィギュアなら「3次コン」なのかというと、この場合 も「2次コン」と言う。
実際、小説の主人公に恋してしまう人やアイドルの追っかけをしている人から2次コンを区別することは 難しい。愛着の対象となるキャラクタには女性(の身体的特徴をもった映像/画像?)が多いから2次コ ンは男性ばかりかというと、2次コンを自認している女性もいる。アニメのビデオを観ながら、「ラムち ゃん(ご存知『うる星やつら』の主人公)、カワユイ?」と思いはするが、生身の女性のほうにより関心 があるといった程度のファンから、ラムちゃんでしか性的に興奮できず、現実の女性には何の関心もな いという者まで、程度も様々だ。問題の所在を明確にするために、ここでは暫定的に、「画像として供 給され流通する架空の美少女キャラクタに性的な関心を寄せる男性」と定義して議論を進めることにす る(註6)。「画像」というのが絵だけなのか、それとも写真も 含むのか、あるいはCGも含むのか等も大問題であるし、「男性」と限定することが妥当なのか否かも含 めて、さまざまな反論はあろう。しかし、あくまで暫定的な定義である。この定義は、議論が進むにつれ て微妙な捩れをみせるであろう。
井上晋介の運営する・中高生向けの『ヤング帝国』というホームページがある。2000年10月、この中の 「解決!悩み相談室」という掲示板に次のような悩みごとが掲載された(註7) 。「僕は現実の女性に興味が もてない、いわゆる2次元コンプレックスです。マルチやルリルリに萌え萌えなんです。こんな僕はおか しいのでしょうか? 僕は人間失格ですか?(17才男)」
その筋の人間以外にはわからない隠語で書かれているので、用語の解説が必要だろう。「マルチ」も「ル リルリ」も美少女キャラクタの名前である。もっとも、「マルチ」は美少女型のロボットなのだが。「萌 え萌え」は「萌える」という動詞の語幹の繰り返し。とあるサイトでの解説によれば、これは、2次元の キャラクタへの愛情が芽生えること、を意味する。語幹だけを繰り返す場合はその名詞化である。つまり 「2次元キャラクタに対する愛情の芽生え、もしくはその愛情そのもの」(註8) である。語源ははっきりしないが、『セーラームーン』の「土萌ほたる」というはかな げな美少女の名前からであるとも、またそれ以前にさかのぼるとも言う(註9) 。
この少年の相談に対する回答は2002年8月末時点で80通に及んでいるが、内容は「いいんじゃないの」と「や っぱりまずい」の2通りしかない。それも、「やっぱりまずい」の方が多数派である。「いいんじゃないの」 の理由は、「ひとそれぞれ」、「それがあなたの個性」というものだ。一人で萌え萌えしている分には回りの 人には迷惑がかからない。2次コンを肯定しているのではなく、他人のことだから無関心なのである。「やっ ぱりまずい」の理由は、「現実逃避」と「まだ現実の女の子に興味がないだけ」というものに分かれる。2次 コンを袋小路と見るか通過点と見るかの違いだろうが、いずれにせよ、2次コンは肯定されてはいない。
ところが、2次コンを自認して積極的に発言する者の主張は、先の中・高生の見解とはかなりニュアンスが 異なる。唐沢俊一の『唐沢俊一の裏の目コラム』(註10) というページには、人形愛との比較で強烈な肯定的見解 が表明されている。キャラクタはフェティッシュ、すなわち、人によって神の地位を与えられたもの・物 神である。物神はモノであるから、いくら愛しても物神からの愛情の見返りはない。むしろ、フェティッ シュを愛する者は一方的に愛情を捧げることで萌えるのである。つまり、物神を愛するのはそれが心をも たぬからだ。
先の2次コン少年の悩みに対して、「(2次元のキャラクタを)いくら好きになっても、言葉は返ってこな いし、触れることさえ出来ない。それで君は満足かい?」という説得が投稿されているが、唐沢理論はこ の段階を超越してしまっている。言葉が返ってこないからこそ愛している、という論理だからだ。それゆ え、結論は、「オタクたちよ、人間の女性が自分の愛の対象にいないことを嘆くな」、ということになる。
一方、岡田斗司夫のTVbros『オタクの迷い道』(註11) と題する連載ページでは、こう主張される。アニメや特撮が好きなだけでオタクになれるわけでは ない。『魔方陣グルグル』が好きで毎週見ていても、それだけならただのファンである。関連雑誌 の記事を読み漁り、キャラクタ・グッズを買い漁るのがオタクへの第一歩ではあるが、これではま だコレクタやマニアの域を出ない。オタクになるには、「彼」(彼なのだ! 彼女ではないのだ) の知識が熟成して彼なりのグルグル論・アニメ論を展開できるようにならなくてはならない。要す るに、はまっているその対象を中心とした一つの世界観を形成しなくてはならない。だから、「才 能だけではオタクにはなれない。努力と精進が門を開ける鍵である」ということになる。もっとも、 岡田が「世界観」などという大時代的なものを信じているというのが、そもそも滑稽ではあるのだ が、それは言わずもがなであろう。
この論法で行くと、真のオタクは2次元コンプレックスなどで悩まないはずだ。「どうもマスコミの 人はオタクを『モテないせいで2次元コンプレックスになっているオチコボレ』にしたがっているら しい。ああ、いまだに『モテる、モテない』が価値観の中心にあった80年代を引きずる哀れな人た ちだ」。結論は、「僕はすでに数年前から『オタク文化はオンナコドモには判らない大人の男の文 化だ』と言ってる。トークショーなんかでこれ言ったら満場の拍手だぞ。男の客ばっかりだけど」、 である。岡田には、2次コンであることの方が正常なのだ。正常であるから、「コンプレックス」で あるわけがない。
唐沢と岡田の間にはいくつかの共通点がある。第1に、ネガティヴな「2次元コンプレックス」とい う用語を避けて、積極的に「オタク」という語を使おうとすること。第2に、この「オタク」文化 を「大人の男の文化」と見なすこと。そして第3に、生身の女性に向けられる性的関心よりも2次元 キャラクタに向けられる関心の方がレヴェルの高いものだ、と主張することである。しかし、違い もある。唐沢は愛着の対象がフェティッシュであることを重視する。他方、岡田は、そこを曖昧に したまま、特定の分野に通暁すべく努力する者はみなオタクだと言い切る。2次コンが2次コンであ る所以はうやむやにされる。
しかし、2次コンを考える上で重要なのは、愛着の対象が、現実世界には対応物のない仮想のキャラ クタであることだ。だからこそ、さきの少年の相談にあった通り、現実には存在しないキャラクタ を愛することの訳のわからなさが、つまり、現実との接点が問題になる。それどころか、「現実」 とは何か、というより抽象的な問題が切実なテーマとなる。
奥野卓司は、『パソコン少年のコスモロジー』で、「非職業的に遊戯として、パーソナル・コンピ ュータを操作する活動が、生活の中心となっている若年層の者たち」を「パソコン少年」と定義し (註12)、フィールドワークを通して彼らの生態を分析し た。奥野の考えでは、情報技術によってリアリティの自明性は崩壊している。「視覚信号は、脳内 の連合機能を通じて情報に転換される。このため、一つひとつの信号とそれに対する行動との間に は、民族差や、時代差、固体差(個人差)による変異が生じる。その変異が生得的ではなく、獲得 的に積み重ねられて、あるいは集団内で相互作用して、そのヒトにとっての『リアリティ』が構成 されるのではないだろうか」(註13)。リアリティは個人 の頭の中に後天的に構成されるものであって、それ自体が仮想的であり、したがって、仮想と現実 を対立させることには意味がない、ということだ。
この奥野の主張は、本論冒頭に要約して引用した『文字禍』の語る世界と重なる。「現実」ないし はリアリティが、ア・プリオリな条件として、認識に先立って与えられているのではなく、経験に よって人間の頭の中に構成されるのだ。これはけっし観念的な絵空事ではない。「現実」を把握す るというのは、把握しようとしている対象である「現実」の、その「現実性」の程度を、すなわち リアリティの程度を、何か別のものを尺度として測ることである。尺度が現実そのものであるなら、 そもそも計測にはならない。測る対象と測る基準である物差しが同一だからだ。そうだとすれば、 尺度は「現実」ではない何かでなくてはならない。とすれば、尺度は現実ならざる仮想的な観念で あるほかはないだろう。近松門左衛門は「虚実の皮膜」を言うのだが、これは「実」のもつリアリ ティを信頼できる限りでのことに過ぎない。だが、本当のところは、「虚」と「実」の皮膜には何 もないのである。
とはいえ、奥野が「現実」なるものを全否定しているのかどうかはさだかでない。彼はこうも主張 する。「最近の精神分析学が明らかにしているところでは、視覚以外の感覚の抑圧は、抑圧された だけ、ヒトを現実世界、リアルワールドとの直接的接触から遠ざけてしまうという。そして、実世 界との直接的接触が避けられる時、当然のように、ヒトは実世界を『リアリティ』とは感じなくな る。つまり、先に述べた『世界の見方』という言葉そのままに、現実世界はその人間が『見た』世 界にすぎなくなってしまう。ヒトにとってそれは、身体的な実感のともなわない、浮遊した世界な のだ」(註14)。この引用箇所は、パソコン少年が実世界 をリアルと感じないのは、ディスプレイを介して視覚のみに頼って電脳空間を遊泳しているからで、 問題は視覚偏重をやめることではないか、とも読める。「ヒトの頭脳と電子の頭脳が情報を介して 交感し合うのが、情報社会のヒトの姿」(註15)であるな ら、視覚偏重という人間の感覚器官の構造を変えることはできない以上、浮遊するコンピュータの 内部にリアルな宇宙を仮想するのはやむをえない、というのが奥野の本音であろう。少なくとも、 ディスプレイを介してパソコンの内部世界と交信している限りは、現実が仮想現実以上にリアルで ある、と判断する理論的な根拠はどこにもないのである。
他方、デジタル美学を構想するN. ボルツはさらに一歩前進する。「新しい電子メディアとコンピュ ータ・テクノロジーが日常生活に侵入して来て以来、われわれの現実概念は変わってきている。歴 史的な経験は、日常世界の現実概念がその対称概念――つまり仮象――の意味内容が変わるときは つねに疑わしいものになることを教えている」(註16)。 「仮象」とはここでは仮想のことである。「仮想」と「現実」を哲学用語に翻訳すれば、「仮象」 と「本質」であり、両者は相関概念である。ボルツもこれは認めるが、優位性は仮象のほうにある。 仮象の意味内容の変化によって現実が疑わしくなるのであって、逆ではない。コンピュータ・シミ ュレーションはこの仮象を操作する。「シミュレーションの超実在性は実在のものを吸収し、真か 偽かの問い、現実か仮象かの問いを無意味なものにする」(註17) 。コンピュータ・シミュレーションによるデジタル美学が幻影世界として忌み嫌われるのは、 今なお仮象に対する不安が残存しているからにすぎない。「世界を理解するとは、今日では、世 界をコンピュータにかけてシミュレートできることなのである」(註18) 。これが、ボルツの言う「美しい新たなコンピュータ・ワールド」 (註19)である。 ここには奥野の留保はもはやない。現実を尺度に仮想を測るのではなく、現実が仮想を尺度に測 られるのである。
2次コン積極的肯定論者の主張とデジタル美学の主張とが酷似しているのには驚くばかりである。 むしろデジタル美学の方が潔い。現実は人間の思考機能が所与のデータから構成するものであっ て、その際には身体性など撹乱要因に過ぎない、と言い切ってしまうからだ。これと比較すれば、 2次コンは、2次元キャラクタへの性的な愛着を通して性的な快楽を得ようとするものであるから、 どうしても身体性を引きずらざるをえない。一般的に言っても、現時点では生命に身体は不可欠 である。にもかかわらず、現実とは再構成されたものだ、というデジタル美学の主張は正しい。 両者はどうしたら両立できるだろうか。
例えば、文字はそもそもヴァーチャルなものだ。文字は現実の影であり、仮想の現実である。仮 想の現実の中で観念は身体の拘束を免れて実体化する。しかし、その当否を判断するためにも、 また文字が伝達の役割を果たすためにも、仮想である文字は、読み手の頭の中に具体的なイメー ジとなって結晶しなくてはならない。デジタル美学なら、そのイメージ化こそがリアリティを産 んでいるのであって、これは後天的に構成されるのだ、と言うであろう。しかし、言語は個人の 恣意を超えた普遍性をもつ。ある程度の自由度はあるとはいえ、勝手な解釈は許されない。ゆえ に、まず普遍性が習得されなくてはならない。しかし、また、文字列の「意味」の理解は体験な しには不能だ。この、普遍性と個別体験を結びつけるものは身体的な修練である。なぜなら、身 体こそ、人間が引きずっている物質的条件であるからだ。どれほど空想が飛躍したとしても、身 体という条件をかなぐり捨てることはできない。そして、このことは万人に共通であるがゆえに、 人間の普遍的な条件をなすからである。デジタル美学にとっての撹乱要因である「身体」は、し かし人間の基本的条件である。
だが、身体的修練が仮想を現実に「引き戻す」のではない、ということは繰り返し注意しなくて はならない。現実こそが実体であって、本来的であって、仮想はその影であり、その写しに過ぎ ないというのなら、たしかに、仮想が現実に引き戻されなくてはなるまい。しかし、最初の確認 の通り、あるいはまたデジタル美学の主張の通り、「現実」と称されているものもまた我々の頭 の中に再構築されたバーチャルなものだ。身体は仮想にも、そしてそれ自体が仮想である「現実」 にも、同様に普遍性を強要する枠組として機能するのだ。だからこそ、身体は仮想と現実を結び つけるのである。
そのための回路としての身体的修練がどうしても必要だ(註20) 。これなしには、たとえ記号としての文字列が読めたとしても、それを頭の中にリアライズ する想像力は身に付かない。したがってまた、文字が仮想現実であるという自覚も失われる。あ まりに日常的すぎるがゆえのこの忘却は、逆に日常世界の現実感を喪失させる。本が読めない・ 議論ができない・人の話しを聞けない。こういった事態は、言葉の仮想性の忘却から容易に帰結 する。仮想性の忘却は、その対極にある身体性の希薄化につながる。
このことは、同様に仮想の記号である楽譜と比較するとよくわかる。楽譜は生身の人間による演 奏によって現実の音楽に戻されなくては鑑賞不可能である。しかし、演奏するには演奏家の身体 的修練が必要である。楽譜を読んで音楽を頭の中に再現するだけなら身体は不要だ、と言われる かもしれないが、それは間違いである。楽譜は読めるけれど歌は歌えない、楽器は弾けないとい う人はまずいない。歌い、弾くための身体的訓練を通してしか、楽譜を読む力は身につかないか らである。
仮想と現実の結合は、コミュニケーションの側面をも持つ。身体的修練によって物質化される仮 想は、他者の書いた文章であり、他者の作曲した音楽であるからだ。この場合、身体の修練を通 して「私」の身体を確証することは、同時にこの「他者」の身体を確証することである。コミュ ニケーションは身体性の相互承認として成立する。それは形式(=メディア)と内容(=情報) のみで成り立つのではない。情報の「意味」は、言語の普遍性と各人の個別の体験によって確定 されるのだから、意味を共有するとは、言語と体験とを共有することである。身体性の相互承認 は、「意味」の伝達に不可欠なのである。
そうであるなら、身体性の希薄化は自他相互の身体性の否定へと向かうだろう。身体という不純 物を捨て去って、天使のように純粋に精神だけの聖なる存在になろうとする時、テロルが生まれ る。世界のすべてが悪で自分たちは無垢だという発想は、存在に対するテロリズムへと容易に転 ずるのである。山内志朗は精神だけの存在になろうとする志向を「天使主義」 (註21)と呼ぶ。2〜3世紀のヨーロッパに隆盛したキリスト教の異端・グ ノーシス主義がその典型である。人間の精神を神と等しい聖なるものとし、穢れた身体からの離 脱をめざす一方、悪である現世を徹底的に否定する、という思想である。こうした思想は現代に も見られる、と山内は指摘し、一時期大流行したアニメーション『新世紀エヴァンゲリオン』を その例として挙げる。
ところで、注目したいのは、コミュニケーションと身体との関係に関する山内の分析である。言 葉は、人間に身体があるから、身体が障碍となって心を直接他人に伝達することができないから、 すなわち以心伝心が不可能であるから、必要となる。では、身体を持たない天使には言葉は不要 なのか? 障碍なしには言葉は生まれえない。障碍である身体がなくなれば「透明なコミュニケ ーション」が成り立つとすれば、それは四方八方への心の無差別な垂れ流しであろう。しかし、 これは「言葉」ではない。言葉は特定の誰かに語りかけられるものだ。言葉は個別化されること で初めて実効性を持つ。心を、ある者に対しては開き、ある者に対しては閉じる「意思」が、言 葉には必要である。
常識では、言葉に出される以前に、語られるべき内容はすでに心の中に準備されている、とされ る。しかし、語ることで初めて自分の考えていることがはっきりするという事実は、この常識を 覆すに充分だろう。言葉が内容を作り出す、ないしは形にするのである。言葉はたんなる媒体で はない。「語ることは、語り手の内に渾然として存在することに分節を与える。……(中略)…… 人間の認識が経験を素材として始るのではないが、経験と共に生じるのとちょうど同じように、 心の情念も言葉を原因として存在し始めるのではなく、言葉と共に生じてくる」 (註22)。同様に、情報とメディアがあればコミュニケーションが成り立つ という考えも、コミュニケーションの成立する可能性の条件が、実際のコミュニケーションに先立 って常に存在している、という了解に基づいている。しかし、言語活動の実際がそうではないのは すぐにわかる。相手の名前を呼び合うとか、あいづちをうつといった行為は、伝達すべき情報をほ とんど含んでいない。これらは、コミュニケーションの成立する条件を作るためのコミュニケーシ ョンである。「語ることをそもそも可能にする前提条件が、語ることに先立って存在するという装 いを取りながら、語ることの中で整えられていくこと、おそらく、(コミュニケーション)可能性 の濃度が現実のプロセスの中で充実されている過程があるということ」 (註23)である。
コミュニケーションという行為それ自体が、伝達可能な状況を作り出しつつメッセージを伝える。 してみれば、「メッセージを伝えることが、言葉の本来の機能であり、メッセージ以外のものは付 随的なものにすぎないという考えは、まさに天使主義的言語論だ」(註24) 。むしろ、メッセージそれ自体はコミュニケーションの一部にすぎない。何が語 られるかが問題なのではなくて、そのことをその人と語ることが重要なのであり、もっと言えば、 その人と語ることが可能であるようなコミュニケーション空間を作ることこそが重要なのである。 これにはどうしても身体的な努力が必要となる。メッセージだけがメディアを通じて届けられれば よいのではなく、全身全霊でもってその人と対峙し、その人とのコミュニケーション空間を作り上 げなくてはならない。しかも、これは対話する相互の同等の努力なしには成り立ちえないのである。
身体的修練とコミュニケーションという視点は、奥野にもボルツにも欠落している。奥野によれば、 パソコン少年は、インターネットなどというのは他人とつながろうとするコミュニケーションの試 みであって、そういうのはサラリーマンがやることだ、として軽蔑さえしているという。ボルツで は、シミュレーションで再構成される仮象の方にこそリアリティを認めるから、身体性の議論など 出て来ようがない。結局のところ、2次コンもデジタル美学も、出口のないナルシズムに陥っている。 西垣通は、こうして情報処理機器にはまり込む人々を「デジタル・ナルシス」 (註25)と呼ぶ。ナルシスは、他者との関わり合いの重圧から逃れるために、 他者の視線を自分の視線と重ねて、自分を見つめることで他者を代用してしまう。現代のナルシスは 「性的欲望を情報機械によって吸収されてしまう人々」(註26) である。そうだとすると、二次コンもその一変種であって、現代の競争社会での他人の視線とい う重圧に耐えられない弱者ということになる。だが、身体的修練とコミュニケーションがあれば、 「デジタル・ナルシス」化を免れることができるだろうか。情報機械に吸収されてしまう性欲を他 者との関係の中に連れ戻すことが可能だろうか。
いとうせいこうは小説『ノーライフキング』(註27)xxvii で、コンピュータ・ネットワークを通して連絡を取り合う小学生たちが、「ライフキング」というゲ ームソフトに関する情報を共有する中で、恐ろしい「噂」に巻き込まれ、リアリティを喪失していく 様子を描いている。いとうが「ディスコン」と名づけたゲーム機は、ファミコンやプレステの類だと 思えばいいだろう。このディスコン用ゲームのなかでも小学生たちの支持が特に高かったのが「ライ フキング」というゲームだった。勇者の王の血を引く少年ライフキングが、世界を呪いの力で毒の海 に変えている悪の王・マジックブラックを倒すべく、勇敢に戦う……というゲームだ。プレーヤはこ の少年になりきって、敵キャラを倒しつつ、ゲームを戦い抜くのである。それだけのゲームだ。しか も、この手のゲームは実際にもいくらも存在している。しかし、これが圧倒的に支持された理由は、 おそらく、ゲームの中に現れるメッセージにあったろう。子どもたちが常々大人から浴びせ掛けられ ている言葉が随所に散りばめられていたのである。ゲームをしていれば、ディスコンゲームは問題だ から止めなさいといわれる。塾に行けば、友達はみんな敵だから倒さなくちゃならないし、倒さなく ては自分が倒されるのだ、と脅される。こうした日常の恐怖の言葉が、ゲームの中に散りばめられて いた。子どもたちは、そうした言葉と、そうした言葉を吐く敵キャラ=大人と戦うのである。それに、 このゲームには、メーカーは何のコメントもしていないけれども子どもたちの間では常識となってい る、IからIVまでの異なったバージョンがあるらしかった。誰がどこまで戦ったか、勝利したか、そ れぞれのバージョンの特徴は何か……こうした情報が、教室での口コミで、あるいは友達との電話 で、さらにはコンピュータ・ネットで全国をつないでいると自慢する塾のネットワーク回線を通じ て、日本全国の小学生たちの間に流れていった。
ところが、ある日、そのネットワークに奇怪な噂が登場し、瞬く間にひろまっていく。「ライフキン グ」には呪われた第5のバージョンがあって、途中で倒されるとプレーヤは死んでしまう、というの である。さらに、ゲームを解けなくて死んだ子の呪いが「ノーライフキング」という恐怖のゲームに なった、という噂まで広まる。「ライフキング=有機の王・生命の王」が、「ノーライフキング=無 機の王・死の王」を生み出したのである。そうこうするうちに、主人公の「まこと」が通う小学校の 校長が、朝礼の壇上で、「問題はディスコンゲームだ!!」と説教をはじめた途端に倒れ、息を引き 取るという事件が起こった。子どもたちには、最早事態はあきらかだった。とうとう始まったのだ、 「ノーライフキング」のゲームが。それも、ディスコン上ではなく、現実の世界で。
大人たちはディスコンゲーム撲滅運動を開始する。だが、始まってしまったゲームが解かれなくては 参加者全員が死ぬ。そして、参加者とは全ての人間だ。なぜなら、ゲームはディスコ上で展開してい るのではなく、現実の世界で展開しているのだから。だから、ゲームは死守しなくてはならない。 「みんなのために、ぼくたちはゲームを必死で解いているのだ……」。しかし、子どもたちがリアル だと信ずる世界は大人には理解されず、ゲームと噂とを共有していたはずの子どもたちの間にも亀裂 が生じる。とうとう子どもたちは、自分自身のリアリティを確証するために、キーボードに向かって 自分自身についての情報を渾身の力をふり絞って打ち込みはじめる。
子どもたちがお互いに交わす通信文が、「リアル デスカ?」(註28) であり「ユビヲシンジマス」(註29) (もちろん、キーボードに自分自身を打ち込んでいる自分の指である)であるのは、象徴的である。 すなわち、コミュニケーションが存在しても、他者とのかかわりが存在しても、あるいは、熟練の結 果、キーボードに正確に文字を打ち込める指=身体を獲得したとしても、それがヴァーチャルではな い「現実」からは排除されたものとして具体化される限り、言い換えると、それを「リアル」である と認識しあうことのできる者たちの間でだけ通用する「現実」であったのでは、やはりリアリティは 保証されないのだ。そしてまた、この「リアリティ」と対立する、圧倒的大多数の者たちの共有する 「リアリティ」も、これとは対立する他の「リアリティ」の存在ゆえに普遍性を喪失するのである。
仮想の女性に心を奪われる男性というのは昔からいた。ダンテのベアトリーチェも、ゲーテのグレー トヒェンも、現実の生身の女性を超えたところに仮想されたアイドルである。特にゲーテの場合、救 済されるのは生身の男性ファウストではなく「我等」であり、「我等」を天上へと引き昇らしむるの も、生身の女性グレートヒェンではなく「永遠の女性的なるものdas Ewig-Weibliche」 (註30)である。ここでは女性の身体性がその身体に付けられた人称に至るま で徹底して否定されている。しかし、グレートヒェンは、その身体性のゆえに父無し児を身ごもり、 破滅したのであれば、身体性の否定を通して女性を聖母となすことは、女性の身体の収奪と同義であ ることになる。
男性の性的欲望の充足には女性の身体を「使用」しなくてはならない。しかし、使用ののちには妊娠 ・出産という身体性の「罠」(註31)がついて回る。そこで 発明されたのが、ロリータであり、ピグマリオン=マイ・フェア・レディである。初潮前の幼女なら、 身体性によってしっぺ返しされる心配はない。自分の理想のとおりに育てた女性なら、しっぺ返しされ たとしてもそれは男性の制御の範囲内であろう、というわけである。2次コンの青少年向けのゲームの 一大ジャンルがロリコン物であり、ギャル育成物(=ギャル・ゲー)であるのは周知の事実だ。ここで は、男性は性的強者であり、ゲームはその役割を模倣するのである。
しかし、自身がロリコン・マンガ誌の編集をしていた過去を持つ大塚英志は、ロリコン系のマンガ/ア ニメ作品における<強姦者>の不在について分析する。『[まんが]の構造 商品/テキスト/現象』 の中で、大塚は、ロリコン・マンガの主題が一貫して「少女の陵辱」である点で旧来のエロ劇画と変わ らないことを指摘した上で、しかし、ここには、「a〈犯す〉主体である男性が描かれていない。bそれ に替わって少女を陵辱するのがメカニックやグロテスクな異性物である」(註32) という点で旧来のエロ劇画とは大きな違いがあることを主張する。エロ劇画に おいては、犯す側の男性が主人公であり、読者は強姦者に感情移入して読む。そこには、犯す者/犯さ れる者、男性/女性という2項対立が厳然としてある。これがロリコン・マンガにおいては消滅してし まっているのである。大塚は『美少女症候群』(ふゅーじょんぷろだくと)というテキストの編者によ る自己分析を紹介して、こう述べる。「『美少女症候群』の編者は『マンガ・アニメ少年たちは己れの 性的欲望を認めながらも、自らを陵辱の主体とすることに踏み切れないのではないか』と指摘した上で、 その描き手の心理を『2次元の世界においてさえ自分をフィジカルな力の行使者とすることの出来ない 彼らがほとんど集合無意識的に創りあげた』のが〈男根〉の代償物としてのメカニックであったと指 摘しているのは興味深い“自己分析”である」(註33)。エ ロ劇画において描写の対象となるのは陵辱行為であるのに、ロリコン・マンガで徹底した描写の対象と なるのは女性器である点にも、それがうかがえる。行為の主体が描かれないのであるから、残る描写の 対象は性器という細部しかない。
さらに、大塚は、犯す側がメカニックであるということは、犯される側も生身の人間としてイメージさ れていないのだ、と指摘する。これは、描かれる美少女がロボットであるという作品(最初に引用した 「17歳男」の言う「マルチ」がそれである)が存在することからも頷けよう(註34) 。生身の人間ではない美少女のイラスト――それは「性的な着せ替え人形」 (註35)である。しかも、「ロリコンまんが誌の〈作家〉の 大半はコミックマーケットなどを中心として同人誌活動を行ってきたアマチュアである。……中略…… ロリコンまんが誌の場合はその極端な霊で読者と作者がほとんどイコールである」 (註36)。自らを生身の性的主体とはなしえない作者と読者の欲望は、こうし て自己完結している。主人公の男性は、犯す対象である少女をも、さらには犯す側であるはずの自分 自身をも、生身の人間としてイメージすることができないでいるのだ。
この大塚の分析から当然出てくる帰結は、だから彼らは現実の社会生活では性犯罪者にはとてもなれ ない、というものであろう。しかし、はたしてそうだろうか。男性のロリコンだけ考えるなら――と いうことはそれを主たる部分として包含している2次コン男性を考えるならということでもあるが―― 事態は確かにそうであろう。しかし、女性の2次コン、いやそれどころか、女性のロリコン・ファンも また、現に存在するのである。こうして、事態は一層複雑になる。
元来、マンガ・アニメの世界はジェンダー・バイアスのきわめて強い世界であった。少女向けのマン ガと少年向けのマンガははっきりと一線が引かれていた。斎藤美奈子によれば、「男の子の国」はモ モタロウ文化の国、ナショナリズムの国であり、「女の子の国」はシンデレラ文化の国、ロマンチッ ク・ラブの国である。男の子の国では、男の子たちにチームプレーによって、異質なものを排除する ためいの戦争が行われており、その武器は「科学」と「変身」である。戦いの結末は、正義の勝利で ある。女の子の国では、世界に1つの宝物を守るために、ご近所の仲良しサークルが愛と魔法で戦っ ているが、そこでの「変身」は実はファッション・ショーである。宝物を守る戦いは、最終的には白 い馬に乗った王子様が現れて終結する。男の子の国の戦闘チームにも、時々女の子が混ぜてもらえる のであるが、混ぜてもらえるのはせいぜい1人か2人で、それも補助的な役目、ないしは癒し系要員 としてである(註37)。
こうした構造をもつマンガ/アニメにおける「女の子の国」と「男の子の国」の境界線が、近年曖 昧なりつつある。その理由の1つには、ご近所や学校でのラブ・コメが中心だった「女の子の国」の 物語が、戦う女の子たちの出現で様相を一変したことが挙げられる。「変身」が武装ではなくファ ッション・ショーになってしまっていても、それでも「月にかわってお仕置き」をするセーラーム ーンは、確かにチームで戦っているのである。理由のもう1つは、これと対応するように、ナショナ リズムに裏打ちされた思想で科学を武器に正義のため(=ということは一方的な国家エゴイズムの ため)に戦う男の子たちの国が崩壊したことである。
斎藤美奈子の分析では、『新世紀エヴァンゲリオン』は、『ヤマト』『ガンダム』と続く「男の子 の国」の王道のパロディーである(註38)。男性ばかりで 1人だけの紅一点を許していたはずのチームは、『新世紀エヴァンゲリオン』では、碇シンジという 唯一の男の子を除いてみな女性である。残りの4人のうちの2人は14歳の少女、あとの2人は29歳と 30歳の大人の女性である。ここでのチームは「おんな子ども」のチームなのだ。しかも、大人の女 性のうちの1人は、碇シンジの父親でチームの司令官・碇ゲンドウの愛人である。14歳の少女・綾 波レイは、ゲンドウの亡き妻でシンジの母のクローンである。なんとも公私混同のチームである。 その上、戦いの目的は最後まで不明。これはもはや伝統的な男の子の国の戦闘のパロディーとして しか読めない、というわけだ(註39)。男の子の国の論 理の破綻がこの作品の内実である、ということになる。
相互に相容れないものであった「女の子の国」と「男の子の国」の境界線がこうして曖昧になり、 さらに男の子の国の論理が破綻してしまっているという事実は、しかし、マンガ・アニメからジ ェンダー・バイアスが消滅したことを意味してはいない。古典的な男の子優位の論理が破綻した だけであって、たとえば『新世紀エヴァンゲリオン』の女性キャラクタが自立的な姿で描かれて いるかといえばそうではない。『セーラームーン』でも、世界でたった1つの宝を守って戦っては いるけれども、タキシード仮面という「王子さま」が現れて急速にラブ・コメ的結末に向かって進 んでいく。旧来のモデルは実社会同様に破綻しているにしても、新しいモデルが示されていると はとても言えないのである。
こういう状況の中に、女性のロリコン・ファンを置いた場合に見えてくるのは、読者が誰に感情移 入していくのかということである。もちろん、ロリコン・マンガにはまるといっても程度問題はあ る。ロリコンを自認している男性なら、明らかに少女の陵辱を目的に作品をあさるのであろうが、 そうしたハードな作品は通常の流通経路には乗らない。一般のマンガ読者が手にできるのは書店で 販売されている書籍に限られる。それらには、ロリコン体形の美少女があられもない格好で描かれ てはいるけれども、当然、過剰なまでの性器の描写や行為は描かれてはいない。しかし、男性が見 るなら、ここに描かれた美少女に対して、主体たりえているかどうかはともかくとして、行為の主 体と仮定されるはずの男性の側に感情移入し、その男性の性欲の対象である美少女に「萌える」と いう構図になるのであろう。しかし、この種の一般書店で購入可能なやわらかい作品を好んで読む 女性は、どうやら美少女の側に感情移入しているようなのである。
筆者が直接話すことのできた何人かは、その好みのキャラクタを「かわいい」と言う。「この描き 方は、しかしロリコン系だよ」という筆者の指摘に対して、「でも、これはロボットなんだよ」「こ れはコンピュータ・ソフトの映像なんだよ」と反論する。描かれている美少女が生身の肉体ではない ことをエクスキューズにするのである。おそらく、描かれている美少女が物語りの中でロボットでは ない場合にも、生身の身体性を希釈するようなエクスキューズがなされるであろう。つまり、彼女ら にとっての「かわいさ」は、生身の身体性からはかけ離れたところにある「かわいさ」であり、実際 には自分の身体性もキャラクタの身体性も、ともに重荷なのだ。
ここではマンガのキャラクタが大塚の指摘するような「性的な着せ替え人形」として機能しているの である。着せ替え人形が伝統的な文化の中では女の子向けのおもちゃであったことを考えると、着せ 替え人形に感情移入する男性という、ロリコンの世界においては常識的なマニアの方が、特異な現象 なのかもしれないのである。ここには、たんに男性が性的な強者で女性がその対象とされる性的な愛 玩物であるという伝統的な解釈、伝統的な批判手段では解決のできない問題が横たわっていると言っ てよいだろう。つまり、人間はその身体性のゆえに性的に振舞うことが可能であったり、性的に振舞 わなければならなかったりするのではなく、その身体性から逃れてもなお、やはり性的なのだという ことである。否、性的であるためにはかえって自他の身体が重荷なのである。
ところで、女性を年齢によって区分けするという思想は、大塚英志によればまた別の様相を見せる。 大塚によれば、「近代より前に〈少女〉はいなかった。存在したの性的に未成熟な幼女と成熟した女 の2種類だけである。ところが近代社会は、女性を家と家とのあいだで交換される『モノ』として、 位置づけようとした。そのため、社会は女性を初潮を迎えて性的に成熟しながら、それが1人の男に 使用されるまでのあいだ、とりあえずたいせつに未使用のまま保存し、さらにその商品価値を高めよ うと考えた。女の商品価値を高めるために『学校』をつくり、そこで娘たちを教育しようとした。は っきりいって囲い込んだのだ」(註40)。民俗社会では大人 も子どもも生産活動に従事する。大人になるということは、これに次世代の人間を産むという別種の 生産活動が付け加わることである。近代社会はこれを、生産しない「女の子」→生産できるのに生産 しない「少女」→生産する大人の「女」というふうに分節したのである。
では、男の子も、生産しない「男の子」→生産できるのに生産しない「少年」→生産する大人の「男」、 と区別されたのだろうか。大塚は男の子については語っていない。しかし、そうではなかったと思われ る。少女が未使用のまま保存される一方で、少年には「小国民」としての修養が課せられたはずだ。 ジェンダーに基づくこの差別システムは、男性に支配的な地位と有意義な仕事とをあてがうことので きる限りは機能する。しかし、大日本帝国はこれに失敗した。敗戦で軍人が価値を失い、博士や大臣 になることも無意味と化し、さらに、産業の中心が第3次産業へ移って、男たちの存在意義が消滅した のである。かくして少年は、あてのない修練を課されて「男」であることを求められつつも、実際は 何も生産することのない「擬似少女」と化す。大塚によれば、日本中の男は今やみな少女だ。が、そ れを自覚せず、自覚していないから元気がないのである。
消費する性である少女たちは、学校をアジールにし、制服を消費し、かわいいグッズに囲まれた自室 の中で、変体少女文字を書いたり、アサシャンしたり、少女マンガを読んだのであるが、こうした少 女文化は、生産=性行為にいそしむ穢れた大人=「オバサン・オジサン」から、聖なる少女である自 分たちを区別するものだった。しかし、少女時代はいつかは終わらなければならない。にもかかわら ず、「その始まりと終わりがいたってあいまい」(註41) だと、大塚は言う。少女たちには、大人になるとどうなるのかが示されない。その準備もなされない。 というのも、少女たちにそれを告げるべき大人が、大人になっていないからである。
一方、村岡清子は、援助交際をする少女たちへのインタビューを、『少女のゆくえ』にまとめている。 これらの少女に共通して見られるのは、生活に困っているわけでもないが、ブランド物を買うにはお 金がない→けれどもこの消費欲求は抑えられない→そこで、とりあえず今だけという感覚で売春に走 る、という構図だという。大塚は、少女は消費しかしないと言うが、消費するには金が必要だ。少女 はそのための金を持っていない。それゆえ、村岡は、「友だちとのつきあい」のためにも金が要ると いう欲求を抑えることのできない少女にとって、「売春はひとつの必然」(註42) である、と言う。しかも、それが自分の人格や人生にどういう影響を与える かは考えていない。というのも、「ほとんどの子が、あらかじめ「卒業」を前提としている事を自分 へのエクスキューズにしている」(註43)からだ。このモラ トリアム感は、大塚の「生産できるのに生産しない少女」という指摘と一致する。身体性はここでも 希薄である。性に対して、身体に対して敏感だから活発な性行動が可能なのではなくて、身体性の感 覚が希薄だから、「とりあえず今だけ」売春ができるのだ。
少女は出口の見えないモラトリアムのなかで身体性を喪失したままとりあえず消費と売春に走る。少 年は、とりあえず恐喝をして消費に走るか、2次元キャラクタへと逃げ込む。どちらにも、現実世界 と身体とに対するリアリティが欠落している。そこで再現されているのは、男性が支配的である文化 の中で培われた性関係だ。少女の売春はもちろんのことだが、美少女系のゲームやマンガの中で再現 されるのは、通常生身の女性に対して行ったなら強姦・陵辱にあたるような、女性の身体に対する収 奪である。誰にも迷惑をかけずに自室のゲーム機やマンガ本を相手に妄想にふけっているだけだから いいではないかと言うかもしれない。しかし、強姦・陵辱される側の性の立場でこれを見れば、あ からさまな表現の暴力である。これを「他人の迷惑になってはいない」と認識するとすれば、それ は他者の痛みに対する想像力の欠如でしかあるまい(註44) 。
メンズリブ東京のホームページには、メンズリブ東京が1995年に創刊した『男の人生すごろく』か らの記事の抜粋が掲載されている敦(註45)。この中に、 「性的弱者に対する『2次元社会主義』の勧め」 という文章がある。2次元社会主義とは、「漫画やアニメの女性キャラクターに絶対忠誠を誓うな らば、容姿の美醜や貧富の差に関係なく平等に性的欲求を解消が出来るということ」だという。女 性の方が弱い立場にあるとされるが、こと恋愛においてはそうではなく、男性はいつも弱い立場に いる。醜いと相手にされない。デートにはお金がかかる。これは不平等だ。「生身の女性に恋愛の 対象にされず、恋人も出来ず、結婚出来なくとも、それは何ら恥じるべきものではなく、『二次元 社会主義』を信奉し、逆に生身の女性を相手とせず、童貞を守り、性交を断ち、肉体的、精神的純 潔を保つことこそ誇りに思うべき」である。筆者は「2次元社会主義」を生身の女性から疎外され た「性的弱者」の心の支えにしたい、と言う。
「男性は性的弱者である」という主張は、小谷野(註46) にも見られる。基本的には、既存の性規範の中では男性は強くあることを要求されるが、強くない 男性はどうすればいいのか、という問題設定である。男性を弱者と規定することは、男性=強者と いう常識を覆してみせる点で重要ではある。しかし、それは、強者であるはずの男性が、男性であ ることによってどれだけのものを失っているかを明らかにする方向を目指すのでなければ、既存の 男性優位の秩序を補完するものにしかならない。男性は本来強者であるべきなのに、私に限っては そうではないが、これは不当だ、というのなら、それはルサンチマンだ。こうして発生した弱者の ために2次元コンプレックスを受け皿にしようというのなら、それは、生身の女性を支配できない者 は、仮想空間で2次元キャラクタを仮想的に強姦すればいい、と言っているに等しい。仮想の中で性 暴力を再生産するだけだ。
これを逆手に取ることもできる。榎本ナリコの『センチメントの季節』(小学館)は、少なくとも 著者の主観に従えば、こうした弱者としての男性の犯罪性を暴き出す作品である。登場するのは中 学生や高校生の少女であり、援助交際にはまる冴えないオヤジたちや、大人になりきれない新人 サラリーマン男性やら、家庭教師の男子学生が、彼女らと関係を持つ。商業誌に連載されている ものであるがゆえに、露骨な描写は巧妙に避けられてはいる。しかし、犯す主体としての男性は 克明に描き込まれている。克明にとはいえないまでも、それらしい性器の描写すらある。自身が 女性である榎本ナリコは、インタヴューに答えて、「私は『センチメント』を悪意で描いてます」 と言い切っている。「読んでる人を傷つけてやりたい」(註47) とまで言う。もっとも、榎本にいわせれば、それは「感動させる」ということなのだそうだが、 しかし、読んで癒されるようなマンガにはしたくないのであろう。それは、性的なものを期待し、 性器や行為の描写を期待しながら、それを目にした途端に、そういう意図を抱いた自分が恥ずかし くなるというような構造の「毒」を、男性読者に提示するのである。
だが、これは作者・榎本ナリコの主観に過ぎない。榎本は同人誌上では「野火ノビタ」のペンネー ムで2次創作=既存作品のパロディーをやっているが(註48) 、2次創作においては原作のキャラクタは原著者の意図を越えて一人歩きをするものである。 とすれば、作者の主観的意図がいかに「悪意」であって、性的弱者である男性が少女に対する加 害者としても立ち現れる様=男性の劣情のみっともなさと犯罪性とを男性に突きつける点にあっ たとしても、キャラクタの一人歩きは止めようもない。この事実を榎本は嫌というほど知ってい るはずである。マンガを読むという行為が、読者に自身の痛みの記憶を喚起しないのならば、作 者の意図の如何にかかわらず、作品はポルノグラフィーとして機能しうるであろう。
2次コンを語るときに、悪意をもって、「仮想の2次元空間を現実と取り違えた人々」という表現 がしばしばなされる。しかし、以上から明らかなのは、彼らは決して仮想と現実とを取り違えて はいないということである。むしろ、彼らは、いわゆる「現実」をではなく、仮想世界を、自分 をアイデンティファイすべき空間として選んだのである。いわゆる「現実」を仮想世界ほどには リアリティがないものとして放棄したのである。そこで、仮想世界に生きる者としてのアイデン ティティが形成される。ここには、血を流す身体も、痛みを訴える身体もない。しかし、現実に は毎日のように繰り返される挫折も絶望もない。それでもなお、いわゆる「現実」の方に立ち返 れと彼らに呼びかけるには、立ち返るに値する現実を実現して見せなくてはならないだろう。こ う考えるなら、彼らを「取り違えている」と非難する人々の方こそ、いわゆる「現実」なるもの が現実に存在していると妄想しているという意味で、現実と仮想を「取り違えている」のである。
傷つければ、身体は血を流し、痛むのである。自分の痛みを自覚しない者は、他人の痛みも知り えないだろう。だからこそ、身体は「仮想」と「現実」とをつなぐことができる。結局、必要な のは、身体という回路を通して仮想と現実とを接合するための修練、とりわけ、コミュニケーシ ョンの経験である。われわれは類的な存在なのだ。一個人にとってのリアリティはその個人だけ のものではない。リアリティの共有こそが、仮想と現実との結びつきを明晰なものにする。仮想 現実の中で特定のイメージがある個人にとっていかにリアルなものとして受け入れられようとも、 共有の可能性のないリアリティはけしてリアルではない。共有するためには、しかし、まず語ら なくてはならない。地位や身分に守られた公式発言としてではなく、自らを自らの言葉で語らな くてはならない。傷つき、血を流しながら、それでも語らなくてはならない。コミュニケーショ ンの可能性がたとえなかったとしても、語らなくてはならない。語らないかぎり、コミュニケー ションの可能性さえ開けてはこないからだ。
『少女民俗学』の著者・大塚英志は、マンガの編集者でもあった。この五月、その大塚が『教養 としての〈まんが・アニメ〉』と題する書物を出版した。一世代前のマンガ・オタクなら常識で あったような古典的作品を、マンガ家を目指す現代の若者たちが知らない、ということに愕然と してのことであった。大塚は言う。「僕たちはまんがやアニメにおける技術と主題の関わりが戦 後という時代を通じていいかに継承されてきたかを、ぼくたちが読者であったときの体験――つ まりそれをいかに受けとめてきたか――、および編集者・作者としての体験――つまりそれをい かに作ってきたか――を足場として語ることによって、あなたたち読者に「伝える」ことにしま す」(註49)。あるいはまたこうも言う。「ただ、目 の前にある一つの書物や作品をいかに読み継いでいくか、というとても当たり前の努力や試みこ そが、崩壊したとされる「教養」が決定的に欠いていたことのようにも思えます」 (註50)。体験を語り継ぐということの意味は大きい。このコミュニケー ションの試みが、他者の攻撃的視線から情報機器へと逃げ込んだデジタル・ナルシスを、アリテ ィを共有するための場に呼び戻すきっかけになることを期待したい。
2013/07/24