椎名林檎における「歌」の解体と再生
Dissolution and Reconstruction of the "Song" by SHÉNA RINGÖ

『県立新潟女子短期大学研究紀要』第41集p.187-201 (2004年3月10日)


Abstract

According to the traditional theory of the song the close unification of the structures of the words and the music is required. Especially because Japanese has a lot of homophones, this unification is much more important to understand the words of songs. But the Japanese singer-songwriter SHÉNA RINGÖ destructs this unification. Intentionally she makes the double meanings between the written words and the sung and listened voices. So we listeners are forced to interpret her songs from the double meanings. It is the dissolution of the songs in the traditional sense, but as well as the reconstruction of songs not as "eproductive arts" but as the performance that are created between the singer and the listeners only one chance, so it is the essentially rebirth of the songs. (LIRM: 国際音楽文献目録掲載のために作製した英文要旨)

歌についての伝統的な理論によれば、歌詞の構造と音楽の構造には密接な一体性が要求される。とりわ け、同音異義語の多い日本語においては、歌詞の理解にはこの一体性は不可欠である。しかし、日本の ポップス歌手・椎名林檎はこの一体性を破壊する。椎名林檎は、書かれた歌詞と歌われ耳に聞こえてく る音との間に、意図的に二重の意味を作り出す。それゆえ、聴く者はみな、二重化した意味をもとに歌 を解釈するよう強要される。彼女のスタイルは伝統的な歌の解体であるが、同時にまた、これは複製芸 術としてではなく、歌い手と聴衆との間の一回限りのパフォーマンスの共有としての歌の再生であり、 本来的な意味でも歌の復活でもある。


1998年5月に《幸福論》(註1)でシングル・デヴューしてから、 2001年春に産休を宣言して活動を休止するまでのあいだ、椎名林檎の人気は急上昇といってもよかった。 同年9月の2枚目のシングル《歌舞伎町の女王》は、オリコン初登場56位。1999年1月の3枚目のシングル 《ここでキスして》は、同11位。同年2月のファースト・アルバム《無罪モラトリアム》は同2位。発売 開始からヒットチャートの上位に登場するのが当然のようになって、2000年4月のセカンド・アルバム 《勝訴ストリップ》では初登場1位を記録している(註2)

こうした人気の背景には、ライヴでの下着同然の衣装やらナースの制服、あるいは花魁の扮装といった、 ある種コスプレともとられかねない衣装や、生理用品をステージ上からばらまくといった性的なパーフ ォーマンスの効果もあったろう。そうした観点から椎名林檎にいかがわしさをみる批評もあったし、そ うしたものを期待する一部のリスナー(?)がいたであろうことも想像に難くない。しかし、それだけ では、ヒットチャートの上位を維持し続けることは困難だ。しかも、椎名林檎の歌は難解で歌いにくい のである。カラオケで素人でも歌えるというのがヒットの条件だ、というポップス界の常識からすると、 明らかに椎名林檎の歌はこの条件を満たしてはいない(註3)

難解とはいっても、楽曲の構造が複雑であったりするわけではまったくない。2小節ないしは4小節から なる楽節が繰り返され、サビが入り……という古典的な構造はしっかり踏襲されている。歌詞をフレー ズに詰めこむために小節が追加されたり、音楽的には無意味な変拍子が使われるといったことはほとん どない。そういう意味では、ドラムスをはじめとするリズム・セクションに技量がありさえすれば、確 かにノリのいい8ビートの曲に仕上がるはずである。コード進行も転調もまったくもって古典的だ。主 要3和音に副3和音が絡んで、これに経過音等の6度や7度の音が付け加えられるだけである。結果として できあがる音楽は単純明快なものとなる。悪く言えば単調ですらある。

歌いにくいとすれば、音程のとりにくい半音階の多用と、サビの部分での音程の跳躍といったメロディ ーの問題があり、さらにそのメロディーと組み合わさる言葉のフレージングという問題があろう。しか し、この後者の問題は、歌詞の難解さとの相乗作用を引き起こしている。椎名林檎の作品の特徴は、実 はここにある。椎名林檎による深読み禁止令(註4)を無視して、 あえて深読みを試みてみよう。

U

まず、最初のアルバム《無罪モラトリアム》の第一曲、〈正しい街〉の歌詞を示す(註5) 。各行には楽節構造に対応した番号を振っておく。

〈正しい街〉
(1) あの日飛び出した此の街と君が正しかったのにね
   
(2) 不愉快な笑みを向け長い沈黙の後態度を更に悪くしたら
(3) 冷たいアスファルトに額を擦らせて
期待はずれのあたしを攻めた
(4) 君が周りを無くした
あたしはそれを無視した
(5) さよならを告げたあの日の唇が一年後
(6) どういう気持ちでいまあたしにキスをしてくれたのかな
   
(7) 短い嘘を繋げ赤いものに替えて
疎外されゆく本音を伏せた
(8) 足らない言葉よりも近い距離を好み
理解出来ていた様に思うが
(9) 君に涙を教えた
あたしはそれも無視した
(10) 可愛いひとなら捨てる程居るなんて云うくせに
(11) どうして未だに君の横には誰一人居ないのかな
   
(12) 何て大それたことを夢見てしまったんだろう
あんな傲慢な類の愛を押し付けたり
(13) 都会では冬の匂いも正しくない
百道浜も君も室見川もない
   
(14) もう我が儘など云えないことは分かっているから
(15) 明日の空港に最後でも来てなんてとても云えない
(16) 忠告は全ていま罰として現実になった
   
(17) あの日飛び出した此の街と君が正しかったのにね

確かに難解な歌詞である。言葉が尽くされていないとも言える。この歌詞から文法的に整合的な解釈によっ てなにか具体的なメッセージを取り出そうとしても、かなり無理がある。それでも、ある程度の解釈を加え るなら、ざっとこんなところではあろう。

まず、(1)のイントロと、(2)から(6)までの第一節。「あたし」は一年前に「君」の忠告も聞かずに「此の 街」を飛び出した。止める「君」の忠告に対して、「不愉快な笑み」をうかべながら「長い沈黙」の後さ らに態度を硬化させた「あたし」を、「君」はかなり暴力的なやり方で「責めた」(歌詞カードではここ は「攻めた」となっている)。「君が周りを無くした」というのは意味不明であるが、いずれにしても、 「あたし」は「君」の忠告を無視したのだ。それなのに、一年後に再会した「君」は「あたし」にキスを してくれた。どうしたことだ……と、「あたし」は混乱する。

(7)から(11)の第二節。第一節の「長い沈黙」が、一年後には「短い嘘」の連鎖にかわっている。何を言っ ても嘘になる。嘘に嘘を重ねながら弁解して、しかしそれが「あたし」自身を追い込んでいく。「君」は それに対して涙さえ流してくれる。なのに、「あたし」はそれさえ無視する。そして、「可愛いひとなら 捨てる程居る」なんて強がりを言う「君」に対して、「あたし」は心の中で、それじゃあもしかするとま だ「君」は「あたし」を愛していてくれるんでは……と妄想する。

そして、(12)以降の最後の部分。いくらなんでも、それは大それた傲慢だ。でも、今「あたし」が暮らす 「都会」では「あたし」は孤独だ。「都会では冬のにおいも正しくない」。都会には「百道浜も君も室見 川もない」(註6)。けれど、最後に一目会いたいから、明日空港 まで来てほしいなんて、そんなずうずうしいことはいえない。あの日の「君」の忠告が、今、罰として 「あたし」に降りかかる。

ざっと、こういうことであろう。文法的な不整合のために意味不明な個所もある。だが、この詞が無内容 であるとはいえまい。そこには、読み取ることがある程度は可能な何らかのメッセージが、あるいは、読 み込むことが可能な、または、深読みすることの可能なメッセージが、言いかえれば、聞き手が感情移入 する際のよりどころとなる言葉の断片が大量にちりばめられているからだ。提示されているのは論理的に 首尾一貫した文章ではない。それゆえ、論文を読む場合のような論理的整合性を手段とした読み込みであ る必要はない。むしろ、そうした読みはかえって、歌詞の喚起するイメージを抑圧するだろう。だから、 歌詞の意味は明確でないほうがよい。この曲の歌詞は、そうした意味の明確さを欠いている。そのかわり に、イメージを喚起するさまざまな言葉の断片が、それも、意図的に採用された古風な言い回し、尋常な らざる表現、正確に使われているとは言いがたい学術用語などが、ある場合には論理的飛躍をともなって、 またある場合には形容矛盾や二律背反をともなって、ちりばめられているのである。

こうしたテキストは、積極的に感情移入し、あえて深読みを行うことによって始めて、意味らしきものを 語りだす。この歌詞を意味不明であると言う者は、あえて感情移入を拒否する者であり、深読みを忌避す る者である。そういう者は椎名林檎の歌など聴かなければよい。しかし、にもかかわらず聴こえてきてし まう。深読みを拒否し、感情移入を忌避しているにもかかわらず、「意味」が聞こえてきてしまうのであ る。要するに、椎名林檎の歌は「耳につく(=憑く)」のである。

しかし、これは意図的なものだ。「耳に憑く」ように、椎名林檎の歌は巧妙に仕組まれている。歌詞と楽 曲とが複合して意味が聞こえてくるように、それも二重の意味が聞こえてくるように、構造的に作られて いる。テキストは裏の意味を持つ二重化されたテキストなのである。そして、その裏の意味を顕在化させ るための装置をしっかり備えてもいる。

V

裏の意味を顕在化させる装置は、リズムとイントネーションとのズレである。同じ曲のヴォーカル譜を示 しておこう(譜例1)(註7)


譜例1

4/4拍子であるから、最も強い拍は1拍目であり、若干強い拍は3拍目である。そこで、先ほどの歌詞を音節 に分け、すべてを平仮名で表記して、曲の各小節の1拍目に当たる音節はマルーンのボールドで、3拍目に 当たる音節は黒のボールドで表すことにしよう。また、シンコペーションが多用されているから、これら強拍 の直前の拍にはみ出して、1拍目、3拍目とタイで結ばれている音も強拍と考えて、上述の表記をすることに しよう。そして、メロディーの1フレーズ(1小節ないしは2小節のまとまり)を(/)で区切ることにしよ う。すると、歌詞は次のように歌われていることがわかる。

(1)C' のひと だし 
のまち とーきみ がーただ かっ たーのに ねー
   
(2)A ふゆ かいなえみ む/けな がいちんも の/
あと たいどおさ にわる した ら/
(3)A' つめ たいあすふぁ と/にひ たいおこす せ/
てき たいはずれ あたし せめた/
(4)B きみが わりお くし 
あたし それお しし 
(5)C よなら つげ 
のひの くーちび るーがい ねん 
(6)C' どーいう もち 
まあた しーにき すーおし くれ のか 
   
(7)A みじ かいうそお な/げあ かいものに え/
てそ がいされゆ ほんね ふせ 
(8)A' たら ないことば り/もち かいきょりお の/
みり かいできてい ように もうが/
(9)B きみに みだお しえ 
あたし それも しし 
(10)C わいい とな 
てるほ どーいる なんてい くせ 
(11)C' どーして まだ 
みのよ こーにわ だーれひ りい ないのか 
   
(12)D なんて だいそーれ たーことおゆめみて まったんだろう/
あんな ごーまんな たーぐいのあいおお つけたり/
(13)E かいでわふゆの おいもただしく ない
も ちはまもきみも ろーみがわーも ない
   
(14)C もうわが まな 
えない こーとわ わーかあ ているか 
(15)C すのく こう 
いごで もーきて なーんてと もい ない/
(16)C ちゅーこく すべ 
まばつ とーして げんじつ なーっ 
(17)C' のひと だし 
のまち とーきみ がーただ かっ たーのに ねー

楽譜と照合すればわかるが、形式はC' + A A' B C C' + A A' B C C' + D E+C C C C'である。このそ れぞれが、上記の(1)から(17)までの楽節に対応している。繰り返されるのが、前奏にもなっていたCな いしはC'であるが、印象的なのは実はこれではなく、Aである。メロディーの切れ目が歌詞を構成する単 語の切れ目とまったく一致していない。しかも、音楽の構造上要請される強拍と弱拍の交替も、歌詞の フレーズとは一致しない。そして、各小節冒頭の強拍はすべてaiという頭韻を踏む。

詳しく見てみよう。Aの旋律は、4拍目のシンコペーションから始まり、次の小節の3拍目まで1つのフレ ーズを形成する。弱起の4拍目は、16分音符2つと8分音符からなり、この特徴的なリズムの裏拍にあたる 8分音符がシンコペーションして、結果的に強拍となっている、という構造である。先行する2つの16分 音符でたたみかけられるように引き出されるこの強拍が踏むaiの韻は、単に1拍目の強拍で韻を踏んだ以 上に強調されることになる。ところが、この旋律に乗せて歌われる歌詞の方の1フレーズは、次の4拍目 の最初の16分音符まで続いている。意味のまとまりと音のまとまりが分断されているのである。

日本語のアクセントはストレス・アクセントではないから、強拍・弱拍の交替と言葉のアクセントとを 単純に関連付けることはできない。しかし、自立語に強調点が置かれることで文節構造がはっきりする、 とまでは言えよう。つまり、「ふゆかいな・えみを・うかべ・ながい・ちんもくの・あと……」と発音 されることではじめて、「不愉快な笑みを浮かべ、長い沈黙の後……」という漢字仮名混じりの文章が 想起されるのだ。しかし、旋律の構造が要求するアクセントに従うと、「ふゆ・かいなえみ・をむ・け な・がいちんも・くのあと……」と聞こえてしまう。それが、さらにaiという押韻で強調されるのであ る。

このai=「あい」を何と解釈しようとも、それは聴き手の想像力の問題ではある。「愛」でも、「哀」 でも、「相」でも、あるいは「遭い」でもよい。とはいえ、虚勢を張って「此の街」を飛び出した「あ たし」が、自分のやったことの過ちを知りながら、にもかかわらず、再会した「君」に向かってなおも 虚勢をはり、さらに、そうしなければ「君」に傲慢な愛を押し付けることになるのだ、と思いつつ、そ の裏で、「あい」「あい」「あい」と強拍で頭韻を踏みつつ繰り返している、ということが歌から読み 取れていれば、この歌の理解のためには充分であろう。一見難解な歌詞の、文字で表記された表面上の 意味、したがって、テキストから文法的に読み取れる論理的・合理的・整合的な意味とは異なった、裏 の意味ないしはイメージが、旋律と韻とアクセントとを通して立ち上がってくるのだということである。

W

もうひとつ、2枚目のアルバム《勝訴ストリップ》に収録されている〈罪と罰〉の前半の譜(譜例2) (註8)と歌詞を示しておこう(註9)


譜例2


〈罪と罰〉
頬を刺す朝の山手通り
煙草の空き箱を捨てる
今日もまた足の踏み場は無い
小部屋が孤独を甘やかす
 
「不穏な悲鳴を愛さないで
未来等 見ないで
確信出来る 現在(いま)だけ 重ねて
あたしの名前をちゃんと
呼んで身体を触って
必要なのは 是だけ 認めて」
……

注目すべきは13小節4拍目から22小節目である(譜例2のA)。ここの歌詞について、先の例にならって強 拍を示すなら、こうなる。

 
ふ おんなひ めいおあい/さ ないでみ らいなど/
み ないでかくし できるい/ まだけか ねて/
あ たしのな まえおちゃん/と よんでか だお/
さ わってひつよ なのわこ れだけみ めて/

「ない」「らい」「ない」と、ここでもaiの韻が執拗に踏まれる。語頭からアクセントがずれているの も、先の例と同じである。先行する8小節のヘ短調の旋律が、中央のCからオクターブ上のCまでの広い 音域にわたって分散和音のような跳躍の多い音程で歌われるのに対して、この部分に入るとわずか4度 の音程の中を旋律が上下し、しかも、アクセントがあってaiの韻を踏んでいる拍はすべて、E(ヘ長調 のSi)の音である。先行する8小節がヘ短調で、この部分にはいったところでヘ長調に転調しているの であるが、強拍のaiの音は、そのヘ長調のトニックであるFへの導音で、しかも、主音のFはことごと く弱拍なのである。ヘ短調の旋律が心の動揺を、ヘ長調の旋律が不安を暗示しているとみることもでき よう。繰り返されるaiの音がどれも、否定的な意味の語を構成する音節であることも、こうした雰囲気 を補強しているといえるだろう。

ヘ短調部分の歌詞が客観描写の地の文であるのに対して、ヘ長調部分は「あたし」による主観的な訴え かけである。孤独についての事実描写が動揺するヘ短調で示された後、孤独からの解放を求める1人称 のSOSが、トニックへの解決を求めるE音でaiを執拗に繰り返しつつ、ヘ長調で提示されるのである。

解放の方法も重要である。誰かから「名前を呼ばれること」、誰かに「体を触ってもらうこと」、必要 なのは「これだけ」だ。最後の「認めて」は、「必要なのはこれだけであることを認めよ」という意味 でもあれば、「私の名前を呼んで、私の体に触って、そうやって私の存在を認めよ」という意味でもあ る。さらに、「私が認められいてること」をその行為を通して当の「私」に確信させてくれ、という意 味でもある。「認める」というのは、単に他人から認められるだけでなく、他人から認められることを 通して、認められている自分を私が確信することではじめて完結する、自己確認の行為だ。したがって、 それは「私」一人では完結しないのだ。

しかし、では、名前を呼ばれ・体に触られることで自己確認は完結したのだろうか? おそらく、その 答えは否である。なぜなら、心ないしは精神という厄介なものと生身の己の身体とが一体のものである という実感が欠けているところでは、触られても名前を呼ばれても自己確認はできないからだ。ステー ジ上のアイドルとして「椎名林檎」という名前を選び取ったということは、いくら名前を呼ばれても自 分との同一化には至れなくなる道を選んだということだ。アイドル・椎名林檎は分裂を生き続けるしか ない。椎名林檎を演じ続けるしかないのだ。産休宣言の前後に、「もう椎名林檎は辞める」と、引退と も芸名の変更ともつかぬ発言をしていたことからも、希求とその実現不可能性との相克がうかがえ る(註10)。楽曲から聴こえてくる意味と歌詞の意味との分裂な いしは二重化は、歌詞の内容そのものの構造に、そして椎名林檎という存在そのものの構造に、正確に 対応していたといわなくてはならない。

X

こうした操作を、椎名林檎はおそらく意図的に遂行している。発話における音情報としてのテキストが 曖昧化するというのが、意図せざる結果であったのなら、それを助長するような操作をことさらに行使 するわけがない。「此」「何処」「居る」「無い」と執拗に漢字を使うのも、同音異義語がたくさんあ ることを承知で漢語を多用するのも、歌詞カードを見なくては分からない鍵括弧の使用も、旧仮名遣い まがいの表記も、すべてこの一連の意図的な操作によることだ。だが、他方で、この操作はたんなる語 呂合わせに墜する可能性もはらんでいる。おそらくはこれも意図的にやっていることであろう。

次に引くのは〈丸の内サディスティック〉の歌詞である(註11)

〈丸ノ内サディスティック〉〉
報酬は入社後並行線で
東京は愛せど何も無い
  リッケン620頂戴
  19万も持って居ない 御茶の水
マーシャルの匂いで飛んじゃって大変さ
毎晩絶頂に達して居るだけ
ラット1つを商売道具にしているさ
そしたらベンジーが肺に映ってトリップ
 
最近は銀座で警官ごっこ
国境は越えても盛者必衰
  領収書を書いて頂戴
  税理士なんて就いて居ない 後楽園
将来僧に成って結婚して欲しい
毎晩寝具で遊戯するだけ
ピザ屋の彼女になってみたい
そしたらベンジー、あたしをグレッチで殴(ぶ)って
 
  青 噛んで熟(い)って頂戴
  終電で帰るってば 池袋

ここでは、語句の意味の解説が必要になる。「リッケン620」は椎名林檎愛用のギターの名前。「マーシ ャル」はエレクトリック・ギター用のアンプのメーカー名。「ラット」は椎名林檎のプロモーション用 ペーパーの誌名。ギター用エフェクターの名前からとったものである。「ベンジー」はブランキー・ジ ェット・シティのヴォーカル、浅井健一の愛称。「グレッチ」もギター・メーカーの名前。……要する に、この歌詞にちりばめられた素人には意味不明のカタカナはすべて、ポップス業界の業界用語である ということになる。当然、自分でもバンドをやっているという者以外、ほとんど理解不能であろう。 〈正しい街〉の場合、難解さは歌詞の言葉足らずな面からくるものであった。しかし、〈丸の内サディ スティック〉では、わからない単語が意図的に使われているのである。

言葉足らずであるなら、文法的な意味で情報が不足しているところや語の無意識的ないしは意図的な誤 用を解釈していけば、それぞれの受け手なりの解釈をくだすことも可能であろう。その際には、記され た情報がいかに不十分であるとはいえ、歌詞カードはそれなりに意味を持つ。

一般に、日本のポップスは、歌唱だけでは歌詞の内容がはっきりしない。同音異義語が多いという日本 語の特徴もその理由であろうし、言葉のイントネーションとメロディーとがうまく合致している曲ばか りではないということも理由になるだろう。音が聴き取れても、それをどう漢字表記すべきかがわから ない。可能性がいくつもあって、意味を限定できない。そこで、歌詞カードが必要となるわけである (註12)

しかし、椎名林檎の場合、こういう一般的状況に加えて、意味を判断するための重要な要素であるアク セントが、曲の旋律によって極端に捻じ曲げられる。その結果、もはや歌唱からは何を歌っているのか わからないというだけでなく、耳からの音声信号と歌詞カードからの文字情報とが二重の、別のイメー ジをもたらす、ということにすらなっている。

ところが、〈丸ノ内サディスティック〉では、表の文字情報にも意味不明の単語が並ぶのだ。こうなる と、もはや歌詞カードすら意味をなさなくなる。歌詞カードを読んでも、歌詞の内容はまったく理解で きないのだ。上述の解説も、もちろん歌詞カードから採録したものではない。これは音楽雑誌の椎名林 檎特集号に掲載された用語辞典(註13)と、バンド用スコア (註14)にある使用楽器の説明から引いたものである。そうな ると、表の意味が希薄ないしはまったく存在しないままに、あるいは一部の特殊な人間にしかわからぬ ままに、裏の意味ないしは音声によるイメージが一人歩きし始めることになる。

たとえば、「リッケン620頂戴 19万も持って居ない 御茶の水」のところは、次のように歌われる。

りっけん せっくすつー おーちょう だー
じゅうきゅう まーんもー もってい ないおちゃのみず

歌詞カードにはない情報を大量に投入して解釈するなら、こうなるであろう。東京のJR御茶ノ水駅から 駿河台下へと明治大学の前を通って下る道沿いには、エレキギターを扱う楽器店が多数軒を連ねていて、 そこへギターを買いに行ってRickenbacker 620というギターを見つけたのだが、なんと19万円もする。 そんなお金、もっていない……というわけである。けれども、たとえ「リッケン620」がギターの名前だ とわかっていたとしても、この歌い方からそれを連想することは無理だろう。「620」の100の位は「せ っくす」と聴き取れるからである。

そうして耳から入ってくる音にのみ傾聴してイメージを膨らませると、この歌は相当に危険な内容をは らんでいるように聞こえる。「毎晩絶頂に達して」いて、「肺に映った(移った?)」りして、「トリ ップ」である。そして、「グレッチで殴(ぶ)って」欲しいのだ。最後の「青噛んで熟(い)って頂戴」 は、まったく同じ音で発音される別の猥褻な文章の言い換えである。もともとはこちらのテキストであ ったものを、歌詞カードに収録するに際して椎名林檎自身が自主規制したらしい。つまり、ここでは印 刷された歌詞カードがあらかじめ伏字にされているのであって、耳から入ってくる性的な、あるいは薬 物中毒を連想させる響きの方が、実は本当のテキストである、ということになる。こうして、表面上の テキストは単なる語呂合わせの単語集と化すのである。

これが極端まで行くと、《勝訴ストリップ》に収録されている〈ストイシズム〉のようなことになる。 バンド・スコアには、「*この曲は、歌詞表記が困難なため、コード付き歌詞は省略しました」と記さ れている(註15)。歌唱は、他の曲の歌詞の逆回しであるとか、 その他の意味不明な鼻歌の合成から成り立っている。その意味不明な音の散乱の中から聞こえてくるの は、「あなた きれい すてき きらい つよい よわい……」といった言葉の断片だけだ。

こうした現象は、歌詞それ自体で何らかの意味を伝えるのを放棄してしまったようなフレーズでも見て 取れる。その良い例が、英語で歌っている個所である。〈茜さす 帰路照らされど…〉の3番のリフレー ンを示しておこう。

I PLACE THE HEADHONES ON MY EARS AND LISTEN
SOMEONE SING A SONG. I FEEL SO BLUE
NOW DARLIN’ PROMISE ME AND
PLEASE TELL ME SOMETHING WORDS TO SOOTHE
I DON’T WANNA CRY

このフレーズは次のように歌われる(譜例3)(註16)


譜例3


これをこれま での表記法に倣って示せば、こうである。

I PLACE THE HEADHONES ON
MY EARS AND LISTEN
SOMEONE SING A SONG.
I FEEL SO BLUE
NOW DARLIN' PROMISE
ME AND PLEASE TELL ME
SOMETHING WORDS TO SOOTHE
DON'T WANNA CRY I
DON'T WANNA CRY

これでは、耳で聴いた英語(?)を理解するのはおよそ不可能であろう。歌われているテキストは、歌 詞の1番で日本語で歌われていた内容を要約して英訳したものである。したがって、ここで歌われる 情報はすでに提示済みであるがゆえに、このテキストが正確に聞き取られるかどうかには意味がな い。この個所の英語は飾りであり、「英語のテキスト」は、聴き手の耳に達する段階ではむしろ「な にやら英語のようなテキスト」となり、したがって、効果音化してしまっているのである。

Y

産休明けの最初のリリースは2002年5月27日の2枚組カバーアルバム《唄ひ手冥利〜其ノ壱〜》 (註17)であった。2003年1月22日にはシングル《茎 (STEM) 〜大名遊ビ編〜》 (註18)とDVD《短編キネマ 百色眼鏡》(註19) が発表され、さらに同2月23日には3枚目の自作アルバム《加爾基 精液 栗ノ花》 が続く。2003年にはさらに、5月27日にDVD《賣笑エクスタシ−》(註20) が、11月25日にはシングル《りんごのうた》(註21)が、 12月17日にはDVD《Electric Mole》(註22)が発表されている。

2003年の一連の作品には明らかな共通性が見られる。これらの中心に位置するのは《加爾基 精液 栗ノ花》 である。タイトルは「カルキ・ザーメン・クリノハナ」と発音する。もちろん、これらの匂いの類似を連 想しての命名であろうが、しかし収録曲はこのタイトルほどに性的な含みのあるものではない。むしろ、 CDジャケットのデザインからして、死と葬送を強くイメージさせるものである。歌詞カードの表・裏の表 紙には葬儀に用いられる茶器・茶菓が黒をバックに描かれている。ページを繰ると、黒紋付の和服で白い 菊の花束(もちろん仏花である)を手にした椎名林檎、あるいは白の遍路姿で4弦の琵琶や錫杖や数珠を 手にした椎名林檎が、無表情で写っているのである。

全11曲は、真ん中の6曲目〈茎〉を中心に前後が対称になるように配されている。1曲目〈宗教〉に対して は最後の11曲目〈葬列〉が、2曲目〈ドッペルゲンガー〉に対しては10曲目〈ポルターガイスト〉が、3曲 目〈迷彩〉に対しては9曲目〈意識〉が、4曲目〈おだいじに〉に対しては8曲目〈おこのみで〉が、5曲目 〈やっつけ仕事〉に対しては7曲目〈とりこし苦労〉が、という具合である。曲名や内容の点でも、楽器 編成や編曲の点でもそれぞれは対になっている(註23)。とはい え、この対応関係は、作曲者・演奏者=椎名林檎が言っているほど明瞭ではない。むしろ、奇妙な対応関 係と齟齬とがCD・DVD相互の間に存在している。

まず、シングル《茎(STEM)〜大名遊ビ編〜》であるが、ここには、《加爾基 精液 栗ノ花》から、3曲目 〈迷彩〉と6曲目〈茎〉と9曲目〈意識〉が、この順番で収められている。しかし、これらはアルバムから のシングル・カットではない。アルバムに先行して発表されているばかりか、〈茎〉の歌詞は英語であり、 各曲の長さも微妙に異なり、編曲も違う。まったくの別テイクなのである。つまり、この3曲は 〈迷彩〉-〈STEM〉-〈意識〉なのであって、〈迷彩〉-〈茎〉-〈意識〉ではないのである。

しかも、このシングルは、同じ日にリリースされているDVD《短編キネマ 百色眼鏡》の内容とオーバーラ ップしている。CDは音楽データのトラックとPC用の動画と写真とテキストのトラックとからなり、後者は 《短編キネマ 百色眼鏡》の解説になっているのである。

DVDのジャケット裏面の粗筋を引用しつつ補筆して、《短編キネマ 百色眼鏡》の内容を示しておこう。

おそらくは昭和初期、「警察幹部、駒形からある疑いをかけられている舞台女優、葛城楓の身元調査を依 頼された天城(おそらく私立探偵)は、調査中に予期せず楓と芝居小屋で鉢合わせをしてしまう。そして これをきっかけに、身分を明かせぬまま楓に近づこうとする。彼女の抗いがたい魅力に深くひかれ、誘わ れるがままにたびたび楓宅を訪問。天城は、好奇心と使命感から真夜中に張り込み、彼女が独り暮らす部 屋を壁穴から覗き込む。そこで彼の見た予想外の光景とは……」ということなのだが、その予想外の光景 とは、楓の部屋だと思って覗いたその部屋にいたのが、楓ならぬ、椎名林檎演ずるところの「謎の女」だ った、というものだ。謎の女は、天城の覗きなどお見通しで、そんなところから覗いてないで、入ってお いでと誘う。私が誰だかわからないなら、お好きなように名づけなさい。さあ、私をなんと名づけるの? ……と。顔かたちも立ち居振る舞いもまったく異なる夜の謎の女は、昼の楓と同一人物なのか、天城には 見当もつかない。なんと名づけていいのかわからない。昼の楓とはまるで違う人物に見えるが、なぞの女 は昼に楓宅であったことをすべて知っている。混乱して、壁を乗り越えて中に入ることもできず、名づけ ることもできぬまま、日を重ね、駒形から調査結果の催促を受けたその夜、楓も謎の女も忽然と姿を消す のだった。

短編キネマのテーマが「アイデンティファイ」と「名づけ」にあるのは明白だ。天城にとって、「名づけ」 ることは昼の楓と夜の謎の女とを「アイデンティファイ」することである。天城にはこれができない。し かし、それができないということは、同時に、天城自身が自らを「アイデンティファイ」できず、自らを 「名づけ」られないということでもある。謎の女からの「お好きなように名づけなさい」という誘惑は、 自分自身をアイデンティファイせよという命令でもある。

真っ赤な部屋の赤い燈の中に赤い襦袢姿で座る謎の女の誘惑が性的な誘惑であることは明白だが、これに 対して天城は優柔不断な態度しか取れない。他人と性的な関係を取り結ぶということは、関係に入ろうと する個人の人間を決定する。いかなる関係も取り結べないということは、それはいかなる意味でも個人で はない、ということだ。楓に引かれる気持ちを告白することもできず、謎の女の性的な誘惑に応じること もできず、しかも(と言うべきか「当然」と言うべきか)、駒形から依頼された「仕事」をビジネスライ クに遂行することもできない天城。しかも、そのことを登場人物のすべてに見抜かれていながら、これを 天城本人だけが自覚できずにいるのである。

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文字テキストと音声との二重化はここでも顕著だが、それに加えて、同一の楽曲が、片や死のイメージに 染め上げられた一群の作品としてCD化されるとともに、片や「名づけ」の問題を主題とする短編キネマを 構成する部品としてDVD化される。こうして、曲の発するメッセージは二重化どころか四重化すらしたので ある。

しかし、重層化はこれだけには留まらない。《茎(STEM)〜大名遊ビ編〜》と《短編キネマ 百色眼鏡》の初 回プレス版購入者を抽選で招待したコンサートが、《加爾基 精液 栗ノ花》発売日の2月23日に、東京の九 段会館で催されたが、この日の実況録画がDVD《賣笑エクスタシ−》として公開されている。ここでは、 《加爾基 精液 栗ノ花》から6曲と旧作の〈歌舞伎町の女王〉、さらにフランス語で〈枯葉〉が歌われてい るが、バックは全員黒のタキシードに身をつつんだアコースティックのオーケストラである。そうかと思 えば、2003年9月27日の武道館ライヴを中心とするDVD《Electric Mole》では、デヴュー・シングルから最 新作までの曲を満遍なく20曲以上も収録しているが、こちらのバックは、これまでもずっと椎名林檎のバッ ク・バンドを務めてきたメンバーによるものだ。しかも、このとき椎名林檎は、振袖を着てマイクスタン ドを掴んで(都はるみさながらに)武道館のステージを歌いまわるのである(ちなみに、バック・バンド は全員浴衣の男性)。

こうして改めて思い知らされるのは、ステージはそもそもが演技の場なのだということ、それもライヴの ステージは一回一回がまったく異なった演技の場となるのだという、きわめて当たり前の事実である。ベ ンヤミンが「複製芸術」と呼んだ20世紀の芸術メディアは、同じ演奏・同じ演技を何度でも再現可能にし た。そのため、我々は演技が一回きりのものであることを忘れしまう。この常識化した錯誤を、2003年の 椎名林檎の一連の作品とライヴ・パーフォーマンスは叩き壊すのである。重層化したテキストの意味は、 実は書かれた歌詞によって判明するのでも、聴こえてくる音によって判明するのでもなく、ステージの上 と下との応答によって作り上げられてくるのだ。ここから翻ってCDやDVDの記録媒体を考えた時、文字テ キストと音との間での意味の二重化は、また別の意義を持つようになる。すなわち、この二重性・多義性 ・曖昧性は、単なる複製品であるはずのCD・DVDに接するときにさえ、リスナーに読み込みと深読みとを 強要するのである。これが、複製芸術からは失われることが当然のアウラを、微弱なかたちでではあれ再 生産させる。深読み禁止令にも関わらず、深読みが椎名林檎のテキストの本質を支えている。

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Wで提起されたのは、椎名林檎の希求にもかかわらず、「名前を呼ばれ・体に触られること」で自己確認 が完結するのかという問いであった。しかし、この問いには、「本当の自分」と「嘘の自分」という対立 が自明のこととして前提されている。だからこそ、希求は実現し得ない。なぜなら、「本当の自分」も 「嘘の自分」も本当には存在しないからだ。

「本当の自分」が、実感できる私の生身の肉体であり、あるいは自己認識のよりどころである私の名前で あるとすれば、「嘘の自分」とは、他人から見られ、誤解され、曲解されている自分ということになろう。 この両方の「自分」の乖離を調停することができるとすれば、自分を誤解し、曲解している他人が、「本 当の私」である生身の私・身体性を伴った私を認識し、わたしの名前を正しく呼ぶことが必要だ、という ことになる。それがここでの希求というものだ。産休以前の椎名林檎の疲労は、じつにこの乖離と希求実 現の不可能性にあったといってよい。

しかし、演じることを選んだ者は、演じ続けるしかない。この希求を満たすには演技を放棄するしかない のだから、希求は断念されざるを得ない。ではどうするのか? 「本当の私」がいてその「私」が「演技 している」のではなくて、すべての「私」の現象が「私の演技」に他ならないと自覚すること、「本当の 私」など存在しないのだと自覚すること、これ以外にはあるまい。「私」はすべからく演技であって、私 の演技の総体が「私らしさ」と呼べるようなある種のイメージを、見ている者の側に生じさせるのである。 しかし、それを実体化して「本当の私」と取り違えてはならない。

「本当の私」が存在すると錯覚しているからこそ、それが曖昧な今の自分を「嘘の自分」であるとみなす のである。「本当の私」など存在しないと自覚すれば、私の「私」性が曖昧であってもそれは当然のこと で、それが問題だとは誰も考えないはずだ。「本当の私」が見えないからそれを探すのだという、いわゆ る「私探し」は、したがって不毛である。《短編キネマ 百色眼鏡》の謎の女は、もはや「私の名前を呼 んで!」とは言わない。逆に、「私に名づけなさい」と天城に求める。「名づけた通りの者になってあげ るから」というのである。これこそ、「演技」というものだ。しかし、謎の女に名づけるということは、 天城が天城自身に名づけることでもあった。天城が自分の身の処し方を決断するということでもあった。 だから、それができぬ天城は逃げ出すのだ。演技は媚ではない。演技は、演技を求める側の肉を殺ぎ、骨 を斬るのである。以前の椎名林檎が演技する自分に違和感を抱いていたとすれば、そうした違和感から椎 名林檎は自由になったのだ。

それでも名づけない天城に業を煮やしたのか、椎名林檎は自身の誕生日である2003年11月25日に自分で答 えを出してしまった。シングル《りんごのうた》である。

〈りんごのうた〉
わたしのなまえをおしりになりたいのでしょう
でもいまおもいだせなくてかなしいのです
 
はたらくわたしになづけてください
およびになってどうぞおすきなように
5月にはなをさかす わたしに にあいのなを
 
あけびがひらいたのはあきいろのあいずでしょう
きせつがだまってさるのはさびしいですか
 
なみだをふいてかおをあげてください
ほらもうじきわたしもみをつくります
ふゆにはみつをいれて あなたに おとどけします
 
わたしがあこがれているのはにんげんなのです
ないたりわらったりできることがすてき
 
たったいまわたしのながわかりました
あなたがおっしゃるとおりの「りんご」です
おいしくできたみから まいとし おとどけします
めしませ
つみのかじつ

もはや説明の要はないであろう。他者との関係でとる自分の態度を「演技」と言うなら、私の行為はすべ て演技である。個人というのが関係性の総体である以上、「私」とは演技の総体でしかない。しかし、こ れを積極的に読み替えるなら、「私」とは「私が演じたところの者」の総体であって、すなわち、私が作 ったこと・私が為したことの総体が「私」なのである。だから、演技と呼ぼうがなんと呼ぼうが、私は 「おっしゃるとおりの『りんご』」なのである。ただし、罪の果実という「りんご」なのだが。

椎名林檎のプロモーション・ペーパー『RAT』の「2003其の六」(註24) は、〈りんごのうた〉を解説して、彼女が伝えたいことがらは、「リスナーがこの曲を頭の中で転が しながら考えることによって成立する内容」だと指摘している。その通りだろう。ライヴ・パーフォーマン スに参加してであれ、ウォークマンのヘッドフォーンを通してCDを聴いてであれ、聴き手は聴き手自身に とっての「じぶんのなまえ」を問われているのである。

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ポピュラー音楽はほとんどすべてが声楽、つまり歌である。そもそも純粋器楽曲というのは、楽器の性 能が高度に発達し始めるまでは考えることすらできなかった。そういう意味では、音楽というのは西欧 近代を除けば圧倒的に「歌」だったのである。だが、歌には歌詞がなくてはならない。では、言葉と音 楽とはどのように結び付けられるべきか?

だが、例を挙げれば、ジャン・ジャック・ルソーはこのような考えかたには否定的だったようだ。言葉 と旋律を結びつけるのではなくて、言葉の自然な抑揚が旋律に発展するのでなくてはならない。そして こうしてできあがる旋律こそが、音楽では一番大切なのだ。これをルソーは「旋律の純一性」と呼ぶ。 しかし、言葉は音楽の足かせにもなる。言葉のない器楽ならば可能であるような、純粋に音楽的なさま ざまの試みは、旋律の純一性の観点からは退けられるだろう。事実、ルソーのこの主張は、和声法の大 家ラモーとの対決を背景に展開される。

同様の事情は、たとえばヘーゲルの『美学講義』にも現れる。この場合は、対決の相手はベートーヴェ ンである。ヘーゲルは音楽を、主観的な内面性を没対象的で内面的なままに音によって表出する芸術と 捉える。つまり、主観的な心の動きをそのまま音で表現するのが音楽だというのだ。没対象的であると は、文章表現や、絵画・彫刻等の造形表現のように、概念把握できたり直接に手で把握できたりするよ うな具体的な形の作品を構成しはしない、という意味だ。音は音のまま時間と空間の中に消え去るから である。音楽の構成要素には旋律と和声とリズムがあるが、和声とリズムを統一するのが旋律だとも言 う。これはルソーの「旋律の純一性」と同じ主張である。したがって、ルソー同様に旋律を重視するヘ ーゲルは、ルソー同様に純粋器楽曲には否定的で、純粋器楽曲の大家になりつつあったベートーヴェン を、通人にしか判らない難解な音楽を書く作曲家として非難する。

確かに旋律は重要なのだ。楽器のレッスンでも、教師は生徒に「歌って! 歌って!」と言う。歌えな ければ、器楽であっても音楽にならない。しかし、同時に、こうした方向は歌における言葉の役割を低 めるものでもある。オペラの台本を取り上げて、ヘーゲルは、中味が荒唐無稽でさえなければテキスト の内容はどうでもいい、とさえ言う。しかし、これは自己矛盾である。歌詞がなければそもそも歌にな らないからだ。だが、テキストが文学的に高度な内容をもっていたならば、なにも音楽に補強してもら う必要などなく、立派に詩として独り立ちしているはずである。ここに、詩と音楽との微妙な連関と背 反が成り立っている(註25)

ただ、はっきり言えるのは、こうした観点を取る限り、椎名林檎の作品は「歌」ではないということに なるだろう、ということだ。椎名林檎が意図的に採用するさまざまな手段は、ことごとく、歌を解体す る方向に働いている。

元来ポピュラー音楽は芸術音楽よりも方法論の点できわめて保守的であった。保守的であるから、「わ けの分からない」前衛芸術のように毛嫌いされること無く、人口に膾炙し、商売としてなりたってきた のである。それが、とうとうここまで解体されたのである。

しかし、これまで論じてきたように、この解体は同時に、複製芸術としての現代のポピュラー音楽に、 聴き手をして「聴く」という一回性の行為に立ち向かわざるを得ないような状況を生み出してもいる。 これを支えているのが、一方で旧来の「歌」と歌についての古典的な理論を崩壊させつつある椎名林檎 的手法である。この一回性ということこそ、歌の成り立つ本来的な場所なのだとすれば、ある意味で、 我々は歌の再生に立ち会っているのかも知れない。意味は聴き手によって聴き手の主観として再生産さ れることで成り立つ。テキストに意味があるのではなくて、テキストを仲立ちに対話が成立して初めて、 意味という現象が間主観的に成り立つのである(註26)

テキストを詳細に分析すれば、椎名林檎作品からはジェンダーをめぐるさまざまな問題群が浮かび上 がってくる。本稿ではそこまでを論じ尽くすだけの余裕がなかった。これについては、今後の課題と したい。

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2013/07/24