September 1824 reiste Hegel nach Wien ab, hauptsächlich die von Rossini geleitete Italiänische Opern zu schauen. Die lange schmerzhaftige Reise mit Kutschen sollte niemand als ein Liebhaber der Musik wagen. Trotz der Darstellung am Anfang der Musiklehre von "Vorlesungen über die Ästhetik", daß in diesem Gebiete (in der Musik) aber er wenig bewandert sei ......, ist Hegel auch ein echter "Liebhaber der Musik". Wir haben hier zwei Dokumente, eines ist die "Vorlesungen über die Ästhetik", anders seine Briefe aus Wien an seine Frau, die er fast jedentag auf der Reise aus Wien geschreiben hat. Dieses zeigt die Seite von Hegel als einen Liebhaber der Musik, jenes seine andere Seite als den philosophischen Systematiker. Und zwischen beidfen Seiten gibt es einen Gegensatz. In diesem Aufsatz möchten wir diesen Gegensatz bezeichnen, und die Bedeutung seiner "Vorlesungen ¨ber die Ästhetik" in der Situationen der Musik am Anfang des 19. Jahrhunderts erklären.
1824年9月、ヘーゲル(HEGEL, Georg Wilherm Friedrich. 1770-1831)はヴィーンへと旅立つ。旅の 主要な目的はイタリア・オペラ見物にあった。当時ヴィーンでは、ロッシーニ(ROSSINI, Gioacchino Antonio)がイタリア・オペラの長期公演を行なっていたのである。とはいえ、ヨーロッパ大陸全土 に鉄道建設ブームが到来するよりも20年も前の、馬車に揺られての長旅である。よほどの音楽好き ・芝居好きでなければ、ただオペラ見物のためだけにここまでの長旅はすまい(註1) 。『美学講義』の音楽を扱った箇所の冒頭には、「私は楽典には精通してい ないので……」(SK15-137)(註2)という言い訳が記されて いるが、なかなかどうして、ヘーゲルは相当な音楽マニアであったと見てよいだろう。事実、彼は 音楽会の常連でもあったし、ベルリン王立歌劇場のソプラノ、ミルダー(MILDER-HAUPTMANN, Anna Pauline. 1785-1838)(註3)とは個人的にも親交があった。 そもそもこの旅も、ミルダーの勧めによるものであったらしい(Briefe III-54, Nr.479)。ヘーゲル の音楽体験は意外にも広いのである。
このヴィーン旅行の顛末は、毎日のように書かれた妻宛の書簡(Briefe III-48, Nr.476〜III-74, Nr.484)に詳しい(註4)。また、ヴィーンのオーストリア 演劇博物館(Österreichisches Theatermuseum)には当時の興行のポスターが残されている。 この中には、ヘーゲルがヴィーンに滞在していた期間のそれも含まれている。この二つの資料を突 き合わせると、ヘーゲルがかの地で何をどのように聴き・観たのかが明らかになる。ここからは、 彼の音楽体験と美学体系との相克が浮かび上がってくるはずである。
1824年9月初めにベルリンを発ったヘーゲルは、途中、ドレスデン、テプリッツ、プラハを経由して ヴィーンに向かった。地図上の直線距離にしてざっと400Km強、道なりに行くなら600Kmを越える道 のりである。加藤尚武他編の『ヘーゲル事典』(弘文堂 1992)巻末には、「ヘーゲル詳細年譜」が 付されているが、ヴィーン旅行の記述については、ヘーゲルが実際に劇場や美術館を訪れた日と、 これについて述べている書簡に記された日付とを混同しているため、多くの錯誤が生じてしまって いる。まずはこれを正しておかなくてはならない。
おそらく、ベルリンを出たのは9月5日(日曜)。時折雨も降る曇天もだんだんと回復し、ドレスデ ンまでは「まずまずの旅」(Briefe III-48, Nr.476)だった。6日午後にはドレスデンに着き、妻も 承知の定宿《青い星亭(der Blaue Stern)》に投宿。ここで枢密顧問官シュルツェ氏(SCHULZE, Johannes)と偶然にも遭遇する。翌7日(月曜)、二人は連れ立って絵画館やベッティガー(BÖTTIGER, Karl August)邸を訪問し、ベッティガーの古代美術に関する講演を聴いたり、観光名所であるブリ ュールのテラスを訪ねたりして過ごす。夕方、シュルツェと別れたヘーゲルは、ティーク(TIECK, Ludwig)邸を訪問している(Briefe III-48, Nr.476)。シェークスピア作品の独訳で知られる有名な ロマン派の作家である。『長靴を履いた猫』の作者といえば分かりやすいだろう。結局、絵画館に 出かけたりしながらヘーゲルは9月10日(金曜)の朝までドレスデンに留まった。9日(木曜)夜の ティーク邸では、フィンケンシュタイン伯爵夫人(FINKENSTEIN, Henriette von)も同席して、ホル ベルクの喜劇の朗読会が行なわれたが、会が終わらないうちにヘーゲルは退席して、翌早朝の出立 に備えたのだった(Briefe III-49, Nr.477)。
10日早朝にドレスデンを出発してプロイセン国境を越える。「さしたるトラブルもなく国境を越え 通関もすませ……」とわざわざ書いているところを見ると、ヘーゲルは検問にはそれなりに緊張し ていたのであろう。その日のうちにボヘミアの温泉地テプリッツ(Teplitz)に到着すると、ヘーゲ ルは、店の看板がプロイセン王家の紋章だったからという理由で、新築の宿に投宿する(Briefe III-49, Nr.477)。翌日は山に登ったり、城に登ったり、街を散策したり、温泉に入ったりし、夜 には劇場でヴェーバー(WEBER, Carl Maria von)のオペラ『プレツィオーザ(Preziosa)』の幾場面 かも見て、酷評している。この作品はすでに妻と共にベルリンで観ていたもので、当地のものはそ の時の上演よりも酷い、と書いている(Briefe III-50, Nr.477)。
12日(日曜)にテプリッツを発って、その日のうちにプラハ到着。プラハからの急行馬車の座席 が手配できずに、ここで1週間足止めを食らうことになる。とはいえ、この地には妻の伯父にあた るハラー(HALLER von Hallerstein, Johann Georg Freiherr)がクッチェラ連隊大佐として駐屯し てもいた(Briefe III-52, Nr.478)。
まず、13日(月曜)はプラハ城を見学に出かけるも、軍隊と遭遇して退散する。街を散策して疲 れたので、宿に帰って食事をして早々に就寝。13日のうちに得た情報では、急行馬車の座席は19 日(日曜)に1人分しか空きがないとのこと。14日(火曜)は早々にまずこの予約を済ませ、ヴ ィーンへの足を確保した上で、伯母であるハラー夫人(HALLER von Hallerstein, Wilhelmina)の 招待に応じることとなった。朝8時前に、一緒に伯父の率いる軍隊の演習を見物に行こうというの である。ところが、演習地に行ってはみたものの、演習は既に終了した後であった。無駄足を踏 んだわけである。市内に帰る途中でまたも軍隊に遭遇することになるのだが、このときは、部下 を指揮して連体の先頭に立つ伯父に再会することになった。伯父も沿道にたたずむヘーゲルを認 め、駆け寄って抱擁を交わす(Briefe III-52f., Nr.478)。プラハに入ってから軍のあとを追いか けていたのは、どうやら伯父に会うためであったようだ。
14日の夜は劇場で大はしゃぎしている。「放蕩息子の帰郷」か「ドン・ファン」みたいな、教訓 的だがドンチャン騒ぎの喜劇で、奇術まで登場したらしい。教訓をもじって「金があろうがなか ろうが、そんなの関係ねえ」と、9月14日付けの妻宛の書簡を結んでいる(Briefe III-53, Nr.478)。
翌15日(水曜)は伯父を訪問し、歓待される。16日(木曜)には、プラハから片道4時間もかかる カールシュタイン城まで小旅行している。17日(金曜)には市内の教会や美術館を回って絵画を 見てから、伯父の屋敷に昼食にお呼ばれしている。昼食後、伯父の馬車で近郊の森林を散策。こ のあと妻宛に再度手紙を認め、翌18日も伯父に食事に招かれている、と書いている。伯父の下に も置かぬ歓迎ぶりが見て取れる(Briefe III-53, Nr.478)。
19日(日曜)の朝6時、ヘーゲルはヴィーンへ向けてプラハを後にする。3両連結の急行馬車の先 頭の車両には4人乗りの車室がふたつ、窓のようなもので仕切られていて、相客はコブレンツか らの帰途にある夫婦者と、24年間カール大公の侍医を務めて引退した医者であった。42マイルを 36時間かけて走った、とヘーゲルは書いている(Briefe III-54, Nr.479)。この「マイル」は1マ イル=7532.485mに相当するプロイセンの距離単位(註5) であろう。プラハ=ヴィーン間約316Kmを馬車は平均時速約10Kmで駆け抜けたことになる。
20日(月曜)の午後6時にヴィーンの市門に到着。通関手続きをして市内の馬車に乗り継ぎ、宿 を探して投宿したのが7時。旅装も解かずにケルントナートア劇場(Kaiserlich-königliches Hoftheater nächst dem Kärntnerthor)(註6) に駆け込んだのが7時30分であった。このとき既にオペラは開演していた。通常、開演は午後7時 という決まりだったのである(Briefe III-54, Nr.479)(註7) 。税関や宿やらの手続きの間中、ヘーゲルは気もそぞろであったに違いない。
ところで、ヘーゲルが訪れた当時のヴィーンは現在のヴィーンとは大きく異なっていた。地図1は、 アリス・ハンスンが示す1833年のヴィーン市の地図である(註8)。 現在のヴィーンと大きく違うのは、街が城壁に囲まれており、その外側に広大な空き地・ グラシ(Glacis)(図では点線で描かれた道のあるところ)が存在することである。17世紀のトルコ 軍によるヴィーン包囲後、首都防衛のために設けられたものであった。しかし、19世紀にもなると 市域の拡大の大きな障碍になっていた。ヘーゲルは妻に宛てて、「ヴィーンには郊外がない」と書 いている(Briefe III-57, Nr.479)。郊外がないのは中心がないからである。ヘーゲルは、ヴィーン にはベルリンのような大通りがなく、豪壮な宮殿も狭い路地に面していて、王宮でさえどこが正面 かわからない、と書く。一方、城壁の外はというと、広大な空き地をはさんでさらに市街地が外へ と連なっている。さらにその外へと出なければ、郊外には到達しない。城壁が取り壊され、城壁と 空き地の跡地にリング通りという環状道路とそれに面する公共建築群が登場するのは、19世紀後半 を待たなくてはならない。
この時期、ヴィーンにはオペラを上演する劇場が5つ(地図1に示した1から5番)あった。
1は現在でも存在しているが、場所はリンク通り沿いの市庁舎の向い側に移転している。2はヘーゲ ルお気に入りのイタリア・オペラが上演されていた劇場である。現在の国立歌劇場の裏手にあたり、 今はホテル・ザッハーになっている。べートーヴェンの『フィデリオ(Fidelio)』第3稿(1814) (註9)、『交響曲第9番』(1824)などが初演されている。 城壁の中にある劇場はこの2つで、残りは城壁の外になる。3は現在もそのままの形で劇場として存 在しているアン・デア・ヴィーン劇場である。当時は最も立派な劇場であったらしい (註10)。1801年にモーツァルトの『魔笛(Die Zauberflöte)』が上演 された劇場でもあり、『フィデリオ』第1稿(1805)・第2稿(1806)が初演されたのもここであった。 『フィデリオ』の3回の初演の全てで主人公レオノーレを歌ったのは、ヘーゲルに今回のヴィーン 旅行を勧めることになるミルダーその人であった(註11)。
しかし、これらは「オペラ座」というわけではない。これらの劇場ではオペラを含め、様々な演目 が上演されていた。この頃はまだ、ジャンルによって劇場が区別されるようにはなっていなかった のである。たとえば、ケルントナートア劇場で初演されたベートーヴェンの第九は、もちろんオペ ラではない。あるいは、ヘーゲルがヴィーンを発った後の1824年10月後半からアン・デア・ヴィー ン劇場で連続興行を打っていたのは、チアリーニ一家と称するアクロバットの一座である。
地図2は、1850年代末から始まる都市改造以降の地図である。この地図は、アントン・バウアーの 『ヴィーンのオペラとオペレッタ』(1955)(註12)から再 録したものであるが、同書によれば、1629年に初めてヴィーンでオペラが上演されてから1954年ま でに、4870のオペラ作品が市内および近郊の104の劇場で上演されたという。もっとも、劇場名は同 じで時期によって移転したものも数えられているし、104のうちの大半の劇場はすでに存在しない。 1954年以降の半世紀でさらに多くの劇場が新設され、また閉鎖されたであろうが、それはさしあた りここでの議論とは関係がない。
地図1では1番の番号が付けられていたブルク劇場は地図2では3であるが、このうち左の方の3は現 在のブルク劇場で、その右斜め下の3が、地図1に示されているヘーゲル当時のブルク劇場である。 ケルントナートア劇場はこの地図では13、アン・デア・ヴィーン劇場は12、ヨーゼフシュタット劇 場は14、レオポルトシュタット劇場は15である。ちなみに、現在の国立歌劇場は6である。12のア ン・デア・ヴィーン劇場の右斜め下、この地図の下辺ぎりぎりのところに黒丸だけ見える劇場は、 モーツァルトの『魔笛』が1791年に初演されたヴィードナー劇場(Wiedner Theater)の跡地であり、 18は演劇・音楽アカデミーの劇場であったが、後に数ブロック東に移転し、現在この地にはヴィー ン楽友協会のホールが建っている。
地図2の中心近くにローマ数字のTが大書されている。この数字のすぐ右の教会が聖シュテファン 大聖堂で、ここから南に向かってケルントナートア劇場や現国立歌劇場の東を下る道がケルンテン 地方へ向かう街道、すなわちケルントナー通りである。地図1の時代であると、ケルントナー通り は現在の国立歌劇場のあたりで城壁に遮られることになる。この場所に城門が設けられていた。こ の城門が、ケルンテン街道の門=ケルントナー門であった。すなわち、ケルントナートア(Kärntnerthor) である。この門の傍らにあったために、劇場は「ケルンテン門近くの宮廷劇場(Kaiserlich-königliches Hoftheater nächst dem Kärntnerthor)」と呼ばれたのであった。同様のことはブルク 劇場にも言える。Nationaltheater nächst der kaiserlich-königlichen Burgとは、 「王宮(Burg)近くの国立劇場」の意味である。ケルントナートア劇場は、1708年に皇帝の勅許を 受けて建設された、ヴィーン初の石造りの固定劇場であった。それまでの演劇は、必要に応じて 広場を劇場に転用して演じられたのである(註13)。劇 場名に冠されるkaiserlich-königlich (通例k. k.と略記する)という形容詞は、ヴィーン会 議によって解体された神聖ローマ帝国に代わって成立したオーストリア帝国を示す。ハプルブル クの皇帝はオーストリア皇帝(Keiser)にして、支配する周辺諸国の王(König)でもあるがゆ えに、kaiserlich-königlichである。ただし、kaiserlich-königlich (= k. k.)は kaiserlich und königlich (=k. und k.)とは区別され、後者が周辺諸国をも含めた帝国全 体を指すのに対して、前者は帝国のオーストリア地域のみを指す。今でも老舗のケーキ屋のショ ーウィンドウには金文字でK. und k. Hofzuckerbäckereiと書かれているのを目にすること ができる。これは後者の実例である。さしずめ「宮中御用達砂糖菓子舗」ということになる。
ハンスンはブルク劇場とケルントナートア劇場が宮廷劇場であったとするが(註14) 、ハンスン自身も指摘している通り、1820年代にはケルントナートアとア ン・デア・ヴィーンの両劇場の支配人をドメニコ・バルバーヤ(BARBAJA, Domenico)が兼任してい る(註15)。このため、この両劇場の上演ポスターは一 枚の紙の右と左に印刷されていた。このポスターでは、アン・デア・ヴィーン劇場は Kaiserlich-königliches privates Theater an der Wienとなっている。Nationaltheater (国立劇場)でもHoftheater(宮廷劇場)でもないprivatな(私の)劇場ではあったが、それで も皇帝の勅許を得てK. k.の形容詞を持っていた、ということにはなるだろう。ヘーゲルの妻宛の 書簡には、「私の(宿のある)通りのケルントナー通りは……」(Briefe III-57, Nr.479)とあ るから、彼が投宿した宿はケルントナー通り沿いで、劇場の目と鼻の先にあったと考えられる。
さて、9月20日(月曜)の夜のケルントナートア劇場では、メルカダンテ(MERCADANTE, Giuseppe Saverio Raffaello)の『ドラリーチェ(Doralice)』が上演されていた。ミルダーは聴くべき歌手 の名前までアドヴァイスしていたようである。ミルダー御推薦のソプラノ、フォドール (FODOR-MAINVIELLE, Joséphine)は出ていなかったが、テノールのルビーニ(RUBINI, Giovanni Battista)とドンツェルリ(DONZELLI, Domenico)の声は素晴らしく、今回は端役ではあったがバス のラブラーシュ(LABLACHE, Luigi)も素晴らしい、とヘーゲルは報告している。ドイツ人で唯一出 演していたソプラノ、エッカーリーン(ECKERLIN)もなかなかの歌手で、中音域の美しさと豊かさ と力強さには特筆すべきものがあるが、「この3人の男声と匹敵し、これを制することができるの は、ただ一人ミルダーだけだろう」(Briefe III-54f., Nr.479)とは、ミルダー贔屓のヘーゲルら しい。この日はオペラの上演の後にパ・ドゥ・ドゥが踊られている。このダンサーたちについて も、ベルリンのそれよりも上手である、と評している。特に、立った時、ベルリンの踊り手なら 足先は直角にしか開かないが、当地の踊り手は鈍角に開く、と賞賛している(Briefe III-55, Nr.479)。
21日(火曜)、ヘーゲルは朝妻宛に手紙を書き、昨夜のオペラの報告をする。午前中シュテファ ン教会、さらにベルベデーレ宮へ行き、絵画を見る。この当時からベルベデーレ宮は王室の絵画 館であった。この日はざっと見ただけだったが、コレクションの量と質に圧倒されている。昼食 をとりながらこの日2通目の手紙を妻宛てに認める。そして、また、夜はイタリア・オペラである。 この日の演目は、お待ち兼ねのフォドールが出演するロッシーニの『オテルロ(Otello)』。翌22 日は同じくロッシーニの『ツェルミーラ(Zelmira)』である(Briefe III-55ff., Nr.479)。
23日(木曜)朝の妻宛の書簡には、この数日間のイタリアオペラについての詳細な批評が書かれて いる。まず、ヘーゲルは、自分のヴィーン体験は3つに絞られると書く。ベルベデーレ宮の絵画館 へ絵を見にいくことと、イタリア・オペラと、街の見物の3つである。このうち、街の見物について は、すでに「ヴィーンには郊外がない」云々のところで触れた。ベルベデーレ宮へはたびたび足を 運んでいるが、余りの膨大さにコレクションの全体像を掴みかねている(Briefe III-55, Nr.479)。 そして、イタリア・オペラである。
20日はメルカダンテの『ドラリーチェ』、21日はロッシーニの『オテルロ』、そして22日は同じく ロッシーニの『ツェルミーラ』と観てきたが、『ツェルミーラ』の第一幕は退屈であったと評して いる。総じて歌手は男声・女声ともに上手で力強く、声も澄んでいて、技術もしっかりしている。 これに匹敵するベルリンの王立歌劇場の歌手といったら、カタラーニ(CATALANI, Angelica)とミル ダーくらいだろう。だが、21日の『オテルロ』に出演したフォドールは素晴らしかった。技術とい い生気といい、愛らしさ、表現力、趣味の良さ、どれをとっても一級の芸術家と言えよう。このう ちのどれかを持っている歌手はそこらじゅうにいるだろうが、すべてを兼ね備えているのがすごい。 ヘーゲルお気に入りの男声陣、ルビーニとドンツェルリについては(註16) 、ベルリンの王立歌劇場でバーダー(BADER, Karl Adam)がスポンティーニ (SPONTINI, Gasparo Luigi Pacifico)の『オリュムピエ(Olympie)』を歌った時の公演を引き合い にだして、連日連夜の出演で少々歌いすぎではないのかと心配している。21日・22日と出演したテ ノールの主役ダーフィト(DAVID, Giacomo)(註17)は輝 かしい声の力強さで拍手喝采を博したし、バスのラブラーシュ、それからさらに二人のバスであ るボッティチェルリ(BOTTICELLI)とツィンティマルラ(CINTIMARRA)(註18) もすばらしかった。さらに、22日の出演者として、ダルダネルリ(DARDANELLI) にも言及している(Briefe III-55f., Nr.479)。
こうして、この3日間の出演者を一通り振り返ったあとで、ヘーゲルは面白い比喩を語る。彼はヴ ィーンの歌手たち(というより、ヴィーンで歌っているイタリア人の歌手たち)の声を金属 (Metall)に喩えるのである。といっても、これはいわゆる「金属的な声=金切り声」のことでは あるまい。硬質で芯の通った声とでも言うべきだろうか。このような硬質な声と比べると、ミル ダーを唯一の例外として(そう、ミルダーはヘーゲルにとって常に例外で別格なのだ!)、ベル リンのすべての歌手たちの声は澄んでいるとは言いがたく、荒削りで粗野で弱々しい。そしてさ らに比喩は続き、今度は酒にたとえる。ベルリンがビールなら、ヴィーンは黄金色の燃えるよう なワインだ。これは、ベルリンの歌手たちの歌や発声がぞんざいだとかいったことではない。そ うではなくて、ヴィーンのイタリア人歌手たち、とりわけフォドールは、彼らの全存在が音楽と 一体化して(=音楽の中に全人格が入り込んで)おり、彼らの表現もコロラトゥーラも、すべて 彼ら自身の中に見出され、彼ら自身の中から生み出されてくる、ということである。彼らはまさ に、「音楽の中にオペラを(すなわち「作品」を)刻み込む」芸術家、作曲家なのだ(Briefe III-56, Nr.479)。
「オペラ」とはもともとが「作品」という意味である。したがって、音楽芸術においては、音楽 の中に作品を刻みこむことが重要である。そうしてこそ、作品は音楽と一体化する。逆であるな ら、音楽は作品にとっての添え物でしかない。ヘーゲルは、これこそがイタリア人のなせる業な のだと考える。だから、最初は上手かと思ったドイツ人のソプラノ歌手エッカーリーンも、ドイ ツ人であるがゆえに、この能力に欠けると見るのである(BriefeIII-56, Nr.479)。
23日(木曜)朝にこの長文の手紙を認めた後、ヘーゲルは動物園に出かけ、午後は皇帝一家の御 成に遭遇してしまって立ち往生している。だが、この晩のケルントナートア劇場にかかっていた のはバレーの公演だった。イタリア・オペラはお休みである。そこで、レオポルトシュタット劇 場に繰り出して、イグナーツ・シュースター(SCHUSTER, Ignaz)なる俳優が演じる笑劇を観た。演 目には『偽のプリマドンナ(Dei falsche Primadonna)』とか、『劇場の帽子(Die Hüte im Theater)』などがあるのだが、この日ヘーゲルが観たのは『嘘つきリーゼル(Die schlimme Liesel)』 であった。小一時間かかるこの芝居、じつに箸にも棒にも引っかからない代物だったようである。 それにひきかえ、この後に演じられたアルルカンとコロンビーネの登場する音楽付きのパントマイ ムは爆笑もので、ありとあらゆる馬鹿騒ぎと流行歌や舞曲のごちゃ混ぜが際限もなく繰り返され、 ヘーゲルは、息継ぐ暇もなく2時間半にわたって腹の皮がよじれるまで笑い転げた(Briefe III-58, Nr.480)(註19)。同じ宿で知り合った旅行者たちがレオ ポルトシュタット劇場で笑劇ばかり観ていて、ちっともイタリア・オペラを観ないといって不思 議がっていたヘーゲルであったが(Briefe III-55, Nr.478)、実際に観劇してみると存外面白いの で、はまってしまったのである。もっとも、最初ヘーゲルがこの劇場に偏見を持っていたのも理 由のないことではない。18世紀末のこの劇場は、娼婦の公然たる客引きの場と化していたらしいか らである(註20)。
24日(金曜)の午前中はいくつか教会を訪ねてからカール大公の素描と銅版画のコレクションを 見る。15万点にも上るコレクションを全部見ることなど当然出来ないが、ミケランジェロからマ ンテーニャあたりの素描を中心に見学している。その後、王宮の庭園と温室を見、午後はベルベ デーレ宮の絵画館を再訪している。この日の夜はケルントナートア劇場でロッシーニの『セヴィ リアの理髪師(Il Barbiere di Siviglia)』の上演があった(Briefe III-58f., Nr.480)。
『セヴィリアの理髪師』の上演にはヘーゲルは多大な期待を持っていたようである。もともとこ の作品を「ロッシーニのフィガロ」と呼んで、モーツァルトの「フィガロ」同様に贔屓にしてい たヘーゲルである。本場の劇場で本物の歌手の手になる公演ということで、意気込んで劇場に乗 り込んだのであった。この日のフィガロ役はラブラーシェ、ロジーネ役はフォドール。ヘーゲル は最大級の賛辞で絶賛する。バルトロ役のアムブロージ(AMBROGI, Giuseppe)もよかったし、こ の日はじめて聴くフランコ(DE FRANCO)もよかった。しかし、合唱とオーケストラのトゥッティは もっと素晴らしく、あたかもソロの歌声のようにぴったりと合っている、と賛嘆する。それも、 怒鳴り声になることもなく、苦もなく合わせてしまうのである(Briefe III-59, Nr.480)。
ヘーゲルはヴィーンでのロッシーニ熱を紹介してもいる。聴衆は、歌手が登場しただけで拍手と ブラボーの嵐を延々とあびせかけ、一場が終わればまた拍手とブラボーの嵐である。なのに、芝 居が終わった後にはカーテンコールもブラボーもないのはなぜか、とヘーゲルはいぶかる。ロッ シーニに熱狂している側は、これほどのイタリア・オペラの上演は過去50年間現れなかったし、 これから50年間も現れないだろう、と賛辞を呈しているが、彼の音楽をこき下ろす人たちもいる (Briefe III-60, Nr.480)。実際、これが当時のヴィーンの聴衆の状況であったようだ (註21)。ヘーゲルはもちろんイタリア・オペラ、特にロッシーニに心酔 しているが、「音楽には少々退屈なところもあった」と白状してもいる(Briefe III-60, Nr.480)。
翌25日(土曜)午前中、ヘーゲルは王宮の図書館を訪ね、30万冊の蔵書に驚き、宝物の展示や骨 董の展示を見、午後はプラーターの森へ出かける。夜は再びレオポルトシュタット劇場。この日 は『魔法の梨(Die Zauberbirn)』と題する笑劇を観ている。この日、ケルントナートア劇場では イタリア・オペラは上演されていない。それで、レオポルトシュタット劇場へ行くついでに、近 くのプラーターに出かけたのであろう (Briefe III-61, Nr.481)。
26日(日曜)は、荒天をおしてヴィーンの北の郊外、ヌスドルフ(Nußdorf)とアウガルテン (Augarten)に出かけている。ヌスドルフはベートーヴェンの遺書で有名なハイリゲンシュタット (Heiligenstadt)のさらに北、ドナウ運河がドナウ本流から分岐するあたりで、今でも葡萄畑とワ インの醸造所とホイリゲのある田舎の町である。アウガルテンはレオポルトシュタットの北西に 隣接する地域で、広大な離宮があった(Briefe III-61, Nr.481)。
そして、その夜は待ちに待ったモーツァルトの『フィガロの結婚(Le Nozze di Figaro)』である。 「ラブラーシュもフォドールもドンツェルリも出る!」(Briefe III-60, Nr.480)と25日付の書 簡でも期待をにじませていたのであるが、ある意味で期待はずれでもあったようだ。「(イタリ ア・オペラの中で聴くのなら)実に耳に心地よかったイタリア人歌手の輝かしい技巧ではあるが、 モーツァルトの作品のような、より節度のある音楽(gehaltnere Musik)の場合には、この技巧を 存分に展開する機会はそれほどはないのではなかろうか。もっとも、一曲一曲を取り出せば、ア リアもデュエットも、とりわけレシタツィーヴォも、完璧な演奏ではあった。レシタツィーヴォ など、真の芸術家にしか生み出すことのできない自然な表出であった」(Briefe III-61, Nr.481)、 と評している。そして、例によってラブラーシュ、フォドールへの絶賛の言葉が続くのであるが、 普段より前の方の客席に陣取ったヘーゲルは、伯爵夫人役のダルダネルリが挙措といい容姿とい い、可憐な美女であることにびっくりする。歌には言及なしで、である。そして、ダルダネルリ と比べると伯爵役のドンツェルリは見劣りがしたと記している(Briefe III-61f., Nr.481)。
さて、27日(月曜)の午前中はリヒテンシュタイン侯のコレクションを、午後はツェルニー候の コレクションを見学し、夜はブルク劇場へ出かける。演目は書簡には記されていない。28日(火 曜)はエステルハージ侯のギャラリーとシェーンブルン宮殿とを訪れ、夜はケルントナートア劇 場でロッシーニの『コルラディーノ(Corradino)』を観る。この日の手紙の中では、10月1日に帰 途に着くという予定を変更して、もう少し延ばすと書かれている。もちろん、その理由はもっと 々イタリア・オペラを観たいからである(Briefe III-62, Nr.481)。
28日に『コルラディーノ』を観たヘーゲルは、主役のソプラノ=ダルダネルリとテノール=ダーフ ィトをソロもデュエットも手放しで絶賛する。その上で、ドイツでのロッシーニの不人気につい て考察する。なぜ、ロッシーニの音楽がドイツ、特にベルリンで酷評されるのかが、今はよくわ かった、とヘーゲルは書く。それは、「繻子の布地が御婦人がたのためだけのもので、フォアグ ラのパテが食通のためだけのものであるように、イタリア・オペラはイタリア人の咽喉のためだ けに創作されたもの」だからだ。それは「音楽としての音楽」ではなくて、「それ自体が歌」で あり、「歌うために全てが作りこまれたもの」である。だから、音楽として独自の価値を持って いるような音楽であるのなら、ヴァイオリンで弾いてもいいし、ピアノで弾いてもいいし、どん な楽器で演奏してもいいけれども、「ロッシーニの音楽はただ歌われたときにだけ意味をなすの である」(Briefe III-64, Nr.481)。
翌29日(水曜)は、午前中、王宮の図書館で銅版画を見て、午後にはベルベデーレ宮へ行き、そ れから画家のルス(RUSS, Karl)を訪ね、彼と一緒に天文台へ出かける。その後二度目の『セヴィ リアの理髪師』を観にケルントナートア劇場へとおもむく。このときにはもうヘーゲルの趣味は 完全にロッシーニに向かっており、モーツアルトの「フィガロ」よりこちらの「フィガロ」の方 が好きになってしまっている。ロッシーニの音楽にはもう手放しで感服であり、これが聴けるな らヴィーンを立ち去りたくない、とまで書いている(Briefe III-64f., Nr.481) (註22)。
しかし、30日(木曜)はまたしてもイタリア・オペラのない日であった。ヘーゲルは、午前中、 再びリヒテンシュタイン候のギャラリーを訪れ、それから、ヴィーン市北部のヴェーリング (Währing)にヴィーンで哲学教授職に就いている彼と同郷の学者レムボルト(REMBOLD, Ludwig)を訪ねている。レムボルトはヘーゲルの著作を知らなかった。その後、アウガルテン からプラーターへと散策し、このルートの帰結として、夜はレオポルトシュタット劇場に腰 を落ち着けることとなる。この日観たのは二度目の『魔法の梨』(Briefe III-65f., Nr.481) (註23)。この頃になると、「疲れた」という言葉が 手紙の中に散見されるようになる。連日、これだけ精力的に街を巡れば、たしかに疲れはする であろう。
月がかわって10月1日(金曜)。この頃になると、もう一通りの美術品は見、一通りの舞台は観 終えたと考えたのであろう。ヘーゲルは、あとはもう一度観、もう一度聴いておくだけだ、と書 く(Briefe III-66, Nr.482)。だが、帰りの急行馬車の予約がなかなか取れない。1日は個人コレ クションを訪ねたり、ベルベデーレ宮に行ったり、ベルベデーレの近所に住んでいる画家のルス を再訪したりしている。ルスは不在であったが、彼の妻と娘が、ヘーゲルの求めに応じて、所蔵 のデューラーの銅版画などを見せてくれた(Briefe III-66f., Nr.482)。その後、この日はアン ・デア・ヴィーン劇場に出かけた。ヘーゲルによれば、この劇場は「1階の桟敷席を欠いてはい るけれど、当地で一番美しい劇場」(Briefe III-67, Nr.482)(註24) である。この日、アン・デア・ヴィーン劇場では1幕ものの笑劇が2つ上演され ている。特に「二番目の芝居は、公爵という称号でフリードリヒ2世が出てきて、それ以外の役 もみなプロイセン風の名前とプロイセンの軍服を着て演じられる」(Briefe III-67, Nr.482)芝 居であった。上演ポスターによれば、この日のアン・デア・ヴィーン劇場の演目は『焼け落ちた 家(Das abgebrannte Haus)』と『木のサーベル(Der hölzerne Säbel)』の二つである。 ケルントナートア劇場でもこの日はバレーの公演である。
2日(土曜)、ヘーゲルはエステルハージ候のコレクションを再訪する。あいにくこの日は休館 日であったにもかかわらず、ベルリンのプロフェッサーであると名乗ると、候は、存分に見せて 差し上げるようにと従僕に命じた。コレクションを堪能して、昼に一度宿に帰ってから、古代美 術館を訪ねる。館長のゾンライトナー(SONNLEITNER)のお招きである。ゾンライトナーは独身だっ たので、昼食は料理屋でとることとなり、パドゥアの大学教授と3人で食卓を囲む(Briefe III-67, Nr.482)。『ヘーゲル書簡集』の編者は、このゾンライトナーなる人物をヨゼフ・ゾンライトナー (Josef Sonnleitner, 1766-1835)ではないかと推定しているが(Briefe IV/2-277)、そうであると すれば、ヘーゲルの会っていたのはヴィーン楽友協会の創設者であり、ベートーヴェンに『フィ デリオ』初稿のための台本を提供した当の人物であったことになる。さて、こうして午後を過ご して、この夜は久方ぶりにイタリア・オペラを観ることになる。この日の演目はロッシーニの 『コルラディーノ(Corradino)』であった。「いとしのダルダネルリの歌声にとろけた」のである (Briefe III-68, Nr.482)。
3日(日曜)になってようやっと帰りの馬車の切符が確保できた。しかし、この馬車は水曜の便で あった。つまり、6日早朝までヘーゲルはヴィーンに留まることになったわけである。「早く君の 許に帰って、いろいろなことを話してあげたい」のだが、「しかし、もう全部書いてしまったか ら、話すことが残っていない」とヘーゲルは書く(Briefe III-68, Nr.483)。たしかに、一連の書 簡は膨大な記述ではあった。
この日の朝、馬車の予約をすませてから、ヘーゲルは宮廷礼拝堂へ向かう。特筆しているのは、 少年合唱団の声が素晴らしかったことと、皇帝夫妻が臨席していたことである。
3日の夜は、翌4日が皇帝フランツの誕生日にあたっていたので、全ての劇場で『神よ、我等が善 良なる皇帝フランツを護りたまえ(Gott erhalte unsern guten Kaiser Franz)』を合唱すること になっていた。このためもあって、3日の晩のケルントナートア劇場は、通常の7時開演が6時半 開演に繰り上がっていた。チケットにはこのことが印刷されていたのだが、これをヘーゲルは見 落としてしまう。いつも通りの7時に劇場に行くと、すでに合唱は『我等が皇帝フランツ万歳(Es lebe unser guten Kaiser Franz)』に移っていた。それから、この日の演目も通常とは異なって いた。まず、『ツェルミーラ』の第一幕、それから、バレーの『プシュケー(Psyche)』が上演さ れた。『ツェルミーラ』を歌ったのはもちろんダルダネルリであり、ドンツェルリであった。こ れが終わったのが9時で、それからバレーが始まる。バレーの第一幕が終わったのが11時で、中 には帰り支度を始める客も出る始末。ヘーゲルは最後まで観たから、やっと夜食にありつけたの は11時半を回っていた(Briefe III-69f., Nr.483)(註25) 。
4日(月曜)は朝から荷造りをして、荷物はあらかた発送してしまった。それで、夜はやはりオ ペラである。この日が皇帝フランツの誕生日当日である。ケルントナートア劇場はイルミネー ションで飾られていたが、あいにくの荒天のため、せっかくの飾り付けも台無しではあった。上 演された演目は、まず、昨日に引き続き、イタリア・オペラのスター歌手たち総出演による『神 よ、皇帝フランツを護りたまえ』の合唱、続いて、フランスものの翻案でドイツ語によるオペラ 『雪(Der Schnee)』、最後が昨日も上演されたバレーの『プシュケー』の第一幕であった。『雪』 は、このたびのヴィーン旅行で唯一ヘーゲルが観たドイツ語によるオペラとなる。しかし、ヘー ゲルは作品とその演奏とを酷評する。「オーベール(AUBER, Daniel François Esprit) というフランス人の作曲家が書いた低劣な音楽をドイツ人の(貧弱な)咽喉が歌うのである!」。 出来は推して知るべし、というのである(Briefe III-70f., Nr.483)。ヘーゲルは最後の最後ま で、徹底して歌手の声を聴いていたのであった。
5日(火曜)、ヴィーン滞在の最後として、ヘーゲルは午前中に王宮の図書館を再び訪れる。今 度はラファエロとマルク・アントン(ANTON, Marc)を見るためである。ところが、図書館の管理人 にチップを要求された。プロイセンの大学教授がケチったと言われると体面にかかわるので払い はしたが、旅の最後にいとも散文的な事件に遭遇した、とヘーゲルは憤慨している。「終わり悪 ければ、全て悪し」(Briefe III-72f., Nr.483)。午後はシュエーンブルン宮へ出かけ、移動動 物園を見、庭園と噴水を見て、夜は、この日イタリア・オペラは上演されないので、レオポルト シュタット劇場へと流れたのだった。
翌6日早朝、ヘーゲルはヴィーンをあとにする。往路と同じ道筋を逆にたどって、ベルリンへと 帰ったのであった(Briefe III-73, Nr.483)。
このときのケルントナートア劇場の上演ポスターを見ると、ヘーゲルの記述がある意味で極めて 正確であったことが判明する。例として、ヘーゲルが通しで観た最初の晩である9月21日のポス ターを活字で再現しておく 【図版1824年9月21日のポスター】。元のテキストはフラクトゥーア(ドイツ文字、亀の子 文字ともいう)とローマン体を使い分けているが、そのまま示しても解読は困難であろうから、 原文のフラクトゥーアをローマン体で、原文のローマン体をイタリックで再現することにする。
横長のポスターの最上段に日付が示され、それ以下は、左にケルントナートア劇場、右にアン・ デア・ヴィーン劇場のその日の演目が示されている。これは、両劇場の支配人がともにドメニコ ・バルバーヤであったことの現れであろう。経営母体が同一であるがゆえに、同じ日の公演が同 じ1枚のポスターに印刷されて告知されたと考えられる(註26) 。
ケルントナートア劇場の演目は、ロッシーニの『オテルロ』。タイトルの下には「3幕のオペラ ・セリア、ロッシーニ氏の音楽」とあり、その下に配役が記されている。ヘーゲルが書簡に書い ていたドンツェルリやフォドールやダーフィトの名前が見える。ここまではイタリア語である。 その下に、ドイツ語で、「ドイツ語のリブレットはヴァリスハウサー書店(ホーアー・マルクト 543番地)、夜はチケット売り場で、48クロイツァーにてお求めになれます」と書かれ、さらに その下にチケットの料金表が掲載されている。
ついでながらアン・デア・ヴィーン劇場の演目についても触れておくと、この日はドイツ語の笑 劇(Lustspiel)が2作品上演されている。もちろんオペラではない。最初がF. L. シュミット(SCHMIDT) なる劇作家によるフランス作品の翻案で1幕の笑劇『話したがっているのは彼だけ(Nur er will sprechen)』の3回目の公演。これに続いて、ヨハン・ランテンシュトラウホ(RANTENSTRAUCH, Johan) なる劇作家の2幕の笑劇『弁護士と地主(Der Jurist und der Bauer)』である。それぞれの題名と作者 が大書された後に、配役表が示されている。右の段の一番下には、特別出演の女優や今日の公演には 出演していない俳優の名前が並んでいる。そして、最下段に両劇場とも開演が午後7時であることが表 示されている。
興味深いのは、イタリア・オペラのタイトルと配役はローマン体で印刷され、それ以外はフラクト ゥーアで印刷されていることである。しかし、「ドイツ語ないしはドイツ人名がドイツ文字で」と いうことではない。イタリア・オペラの配役表の中にはドイツ人歌手らしき人物の名前も出てくるが、 これもローマン体で印刷されているし、アン・デア・ヴィーン劇場のドイツ語による笑劇の配役中 に見られるイタリア人らしき名前もフラクトゥーアで印刷されている。
参考までに9月30日のポスターを見ると、ケルントナートア劇場では『妖精と騎士(Die Fee und der Ritter)』というバレーが上演され、アン・デア・ヴィーン劇場ではシラーの『ヴィルヘルム・テル (Wilhelm Tell)』が上演されている。ドイツ人がドイツ語で演じる演劇についての記述がフラクトゥ ーアで印刷されているのはもちろんであるが、イタリア人ダンサーの名前も多数見えるバレーについ ての記述もフラクトゥーアである。このバレーの音楽はどうかというと、ロッシーニとパッツィーニ (Paccini)とロマーニ(Romani)という3人のイタリア人作曲家の作品の寄せ集めである。にもかかわら ず、これらの作曲家名の表記もフラクトゥーアである。結局、30日のポスターでローマン体が使われ ているのは、翌日の予告として掲載されたイタリア・オペラのタイトル情報と主役を務めるダーフィ トの名前だけである。
このことが示しているのは、イタリア・オペラ公演と銘打って上演されたイタリア人主体の歌手によ るイタリア語によるオペラにについてのみ、ローマン体になっているということである。これに倣え ば、この劇場でイタリア人たち主体で上演されるモーツァルトの『フィガロの結婚』もイタリア・オ ペラであることになる。事実、ヘーゲルも観た9月26日の公演での扱いもそうなっている。イタリア・ オペラに出演している限りで、ドイツ人であれイタリア人であれ、名前はローマン体で書かれ、それ 以外の演目に出演するなら、同一人物であってもその名前はドイツ文字で記されることになる。
ケルントナートア劇場のチケット料金表が示されているのも興味深い。ただし、これはイタリア・オ ペラの場合だけで、ドイツものやバレーの公演の場合には料金表がない。つまり、通常は「定価」で あり、イタリア・オペラは「特別料金」であったことになる。
ハンスンは1823年のヴィーンの上記5つの劇場のチケット料金の一覧を示している (註27)。それによれば、レオポルトシュタット劇場とヨーゼフシュタット劇 場はほぼ同じ料金で、平土間の予約席が36クロイツァー、自由席で24クロイツァー、上階になるにし たがって安くなり、最上階(5階)の天井桟敷では7クロイツァーであった。桟敷席をボックスごと買 うと、レオポルトシュタット劇場で3フロリン12クロイツァー、ヨーゼフシュタット劇場で4フロリン 24クロイツァーである。ボックス1つで6人程度の席があるはずである。アン・デア・ヴィーン劇場は 若干高く、平土間の予約席で48クロイツァー、自由席で30クロイツァー、ここでも上階になるにした がって安くなり、最上階(6階)の天井桟敷は8クロイツァーである。桟敷席のボックス買いでは5フロ リンになる。ブルク劇場はこれらと比べると指定席では3倍近い料金であるが、平土間以外は全て自由 席であったらしい。最上階(5階)の天井桟敷は20クロイツァー、桟敷席の1ボックスは5フロリンであ る。
問題はケルントナートア劇場の料金である。ハンスンによれば、ドイツものとイタリアもので料金に 違いがあり、イタリアものの方が格段に高額である。ドイツものの場合はブルク劇場の料金とほぼ同 じであるが、平土間以外にも予約席がある分、若干高額になっている。桟敷席1ボックスは8フロリン である。しかし、イタリアものの場合は、平土間には自由席はなく、予約席で2フロリン20クロイツァ ー、最上階(6階)の天井桟敷でさえ24クロイツァーもした。桟敷席1ボックスは何と20フロリンであ る。
しかし、これは1823年の値段である。上演ポスターに記載されている金額は、記載の方法がハンスン の記述方法と異なるので単純には比較できないが、桟敷席1ボックスで16フロリン、平土間の予約席で 2フロリン24クロイツァー、5階の予約席で1フロリン36クロイツァー、自由席は1フロリンから1フロリ ン20クロイツァー、6階の天井桟敷で30クロイツァーという数字がポスターから読める。全体に、前年 より若干値上がりしているが、桟敷席1ボックスの値段が相当安くなっている。
ヘーゲルは、9月26日のモーツァルトの『フィガロの結婚』の上演では「前の方で観た」と書いている (Briefe III-61, Nr.481)。平土間の前の方で観たのであろう。それで、「ダルダネルリは美人だ」と 舞い上がったのである。当時のヴィーンでは、音楽院の声楽教授で年収1000フロリン、若い大学講師 で400フロリンというから(註28)、大体1フロリンが1万円 というところであろうか。そうすると、ヘーゲルは毎晩2万円を超えるチケットを買っていたことにな る。資金援助がなければ成り立たない旅行だったことになる。
さて、上演ポスターからヘーゲル滞在中のケルントナートア劇場の演目を一覧表にすると、以下の通 りである。このうち、イタリア・オペラをイタリックで示すとともに、ヘーゲルがケルントナートア 劇場に足を運んだ日の演目をボールドで示すことにする。
9/20 | 『ドラリーチェDoralice』(Mercadante作曲) | |
出演 | Eckerlin / Rubini / Lablache / Donzelli / Preisinger / Rauscher | |
9/21 | 『オテルロOtello』(Rossini作曲) | |
出演 | Donzelli / Fodor / Botticelli / David / Ciccimarra / Unger / Rauscher / Fischer | |
9/22 | 『ツェルミーラZelmira』(Rossini作曲) | |
出演 | Ambrogi / Dardanelli / David / Donzelli / Eckerlin / Botticelli / Rauscher / Preisinger | |
9/23 | (1) | 『手形証書Der Wechserlbrief』(Bochsa作曲) 歌芝居(Singspiel) 出演者不明 |
(2) | 『妖精と騎士Die Fee und der Ritter』(Rossini, Paccini & Romani作曲) バレー | |
註:この日ヘーゲルはレオポルトシュタット劇場にて観劇。 | ||
9/24 | 『セヴィリアの理髪師Il Barbiere di Siviglia』(Rossini作曲) | |
出演 | Donzelli / Ambrogi / Fodor / De Franco / Unger / Lablache / Rauscher / Dirzka | |
9/25 | (1) | 『手形証書Der Wechserlbrief』(Bochsa作曲) 歌芝居(Singspiel) 出演者不明 |
(2) | 『妖精と騎士Die Fee und der Ritter』(Rossini, Paccini & Romani作曲) バレー | |
註:この日もヘーゲルはレオポルトシュタット劇場にて観劇。 | ||
9/26 | 『フィガロの結婚Le Nozze di Figaro』(Mozart作曲) | |
出演 | Donzelli / Dardanelli / Fodor / Lablache / Unger / Vogel / Ambrogi / Ciccimarra / Rauscher / Teimer / Bassi | |
9/27 | (1) | 『手形証書Der Wechserlbrief』(Bochsa作曲) 歌芝居(Singspiel) 出演者不明 |
(2) | 『妖精と騎士Die Fee und der Ritter』(Rossini, Paccini & Romani作曲) バレー | |
註:この日ヘーゲルはブルク劇場にて観劇。 | ||
9/28 | 『コルラディーノCorradino』(Rossini作曲) | |
出演 | Dardanelli / David / Ambrogi / Bassi / Unger / Preisinger / Eckerlin / Rauscher | |
9/29 | 『セヴィリアの理髪師Il Barbiere di Siviglia』(Rossini作曲) | |
出演 | Donzelli / Ambrogi / Fodor / De Franco / Unger / Lablache / Rauscher / Dirzka | |
9/30 | (1) | 『手形証書Der Wechserlbrief』(Bochsa作曲) 歌芝居(Singspiel) 出演者不明 |
(2) | 『妖精と騎士Die Fee und der Ritter』(Rossini, Paccini & Romani作曲) バレー | |
註:この日ヘーゲルはレオポルトシュタット劇場にて3度目の観劇。 | ||
10/1 | (1) | 『金獅子Zum goldenen Löwen』(Ignaz Ritter von Seyfried作曲) 歌芝居 出演者不明 |
(2) | 『青髭Der Blaubart』(複数作曲家の音楽) バレー | |
注:前日の予告ではこの日、ロッシーニの『エジプトのモーゼMose in Egitto』のヴィーン初演が行なわれるはずであったが、フォドールの突然の不調のため、上演は延期された。この作品の初演が実際に行なわれたのは、ヘーゲルがヴィーンを発った10月6日の夜。なお、ポスターによれば、最初に上演された歌芝居の作曲者ザイフリート(SEYFRIED, Ignaz Ritter von)はアン・デア・ヴィーン劇場の楽長である。この日ヘーゲルはアン・デア・ヴィーン劇場にて観劇。 | ||
10/2 | 『コルラディーノCorradino』(Rossini作曲) | |
出演 | Dardanelli / David / Ambrogi / Bassi / Unger / Preisinger / Eckerlin / Rauscher | |
10/3 | (1) | 皇帝を讃える合唱 |
(2) | 『ツェルミーラZelmira』第一幕(Rossini作曲) | |
出演 | Ambrogi / Dardanelli / David / Donzelli / Eckerlin / Botticelli / Rauscher / Preisinger | |
(3) | 『プシューケーPsyche』(Rossini, Graf v. Gallenberg & Romani作曲) バレー | |
10/4 | (1) | 皇帝を讃える合唱 |
(2) | 『雪Der Schnee』(Auber作曲) ドイツ語によるオペラ | |
出演 | Fischer / Unger / Forn / Haitzinger / Rauscher / Sontag / Heldenreich / Preisinger / Prinz | |
(3) | 『プシューケーPsyche』第一幕(Rossini, Graf v. Gallenberg & Romani作曲) バレー | |
10/5 | (1) | 『手形証書Der Wechserlbrief』(Bochsa作曲) 歌芝居(Singspiel) 出演者不明 |
(2) | 『妖精と騎士Die Fee und der Ritter』(Rossini, Paccini & Romani作曲) バレー | |
註:この日もヘーゲルはレオポルトシュタット劇場にて観劇。 |
こうしてみると、ヘーゲルがケルントナートア劇場へ足を運んでいるのは、もっぱらイタリア・オペラ の上演を観るためだけであり、ドイツ語によるオペラを観たのは10月4日の夜、ただ一晩だけであった ことがわかる。それ以外の晩は、レオポルトシュタット劇場へ4回、アン・デア・ヴィーン劇場へ1回、 ブルク劇場へ1回、足を運んでいるが、これらの劇場で観ているのはみな芝居である。それ以外はすべ てオペラであり、それも1例を除いてイタリア・オペラであるのであるから、彼の旅の目的が、もっぱ らイタリア・オペラ見物であり、とりわけロッシーニを聴くことであったといってよい。オペラを見て いる10回のうち、1回はドイツ語のものであったが、9回はイタリア語であり、そのうちの7回がロッシ ーニで、それ以外はメルカダンテとモーツァルトが1回ずつであるからだ。もっとも、9月から10月にか けてのポスターを通読する限り、この間アン・デア・ヴィーン劇場ではほとんどオペラを上演しておら ず、ケルントナートア劇場ではロッシーニの作品を中心に、それが休みの日は毎回同じバレーと同じ歌 芝居の組み合わせをつなぎとして繰り返し上演していただけであるから、オペラを集中的に観ようとす ると、どうしてもこのような選択になるのである。それでも飽きずにロッシーニを聴き続けているとい うこと自体が、やはり、ヘーゲルのロッシーニ好きを物語っているといってよい。
ヘーゲルがヴィーンを発った日の夜、ケルントナートア劇場では、上演が延期になっていたロッシーニ の『エジプトのモーゼ(Mose in Egitto)』のヴィーン初演が行われている。そしてその翌日である7日 には、ヴェーバーの『魔弾の射手(Der Freyschütz)』が上演されることになっていた。ヘーゲル の懐具合にまだ余裕があって、滞在をさらに引き伸ばすことができたなら、あるいは、馬車の予約が取 れなくてなおもヴィーンに足止めを食らうことになったなら、ヘーゲルはどうしていたであろうか。6日 のロッシーニは観たであろうけれども、7日のヴェーバーはご遠慮させていただいて、レオポルトシュ タットあたりで笑劇を楽しんでいたのではあるまいか。実のところ、ヘーゲルはドレスデンのティーク 邸でかつてヴェーバーと会っている(Briefe II-490, Nr.402への註)。面識があったのである。そして、 ヴェーバーはおそらく確実に、1824年の10月初めには自作の上演のためにヴィーンにいたはずである。 書簡ではそのヴエーバーにはまったく言及していない。ベートーヴェンの第九が初演されたその数ヵ月 後にその同じ街を訪ねながら、しかも、そのベートーヴェンに『フィデリオ』初稿の台本を提供した元 宮廷劇場支配人と食事を共にしていながら、ベートーヴェンについても何の言及もない。要するに、ヘ ーゲルはそのように音楽を聴き、そのようにオペラを観ていたのである。
ハンスンは、1824年にヴィーンで上演されたオペラとして、26の作品を挙げているが (註29)、この中には、ヘーゲルが観た作品のほとんどが含まれていない。そ れもそのはずで、このリストが示しているのは、その年にヴィーンで初演または新演出でプルミエ上演 されたものだけだからである。しかし、同じく初演またはプルミエ上演された作品をリストアップして いるバウアーの一覧ではどうなっているかというと、こちらでは1824年上演の作品として43作品がリス トアップされている(註30)。どうしてこうも数が違うのか といえば、そこには、そもそも何をもって「オペラ・オペレッタ」と定義するかという問題が潜んでい る。
ハンスンの著書は劇付帯音楽等についても論じているのであるが、この一覧に関して言えば、劇付帯音 楽はおろか、歌芝居(Singspiel)もメロドラマ(Melodrama)と題された作品も除外して、もっぱら「オペ ラ・オペレッタ」と称する作品のみを取り上げているもののようである。これに反して、ハンスンの典 拠ともなっているバウアーのリストは、宗教的内容を持った作品と劇付帯音楽は排除しながら、音楽を 伴った世俗的な内容の作品は全てリストアップしている(註31)。 ここに両者の違いがある。
しかし、この違いは大きい。ハンスンはリストアップした26作品のほとんどがイタリアものか、あるい はフランスものの翻案であると指摘するが(註32)、歌芝居 (Singspiel)を排除すれば、どうしてもそうならざるを得ない。なぜなら、伝統的なドイツのオペラな いしはそれに準んずる作品ジャンルは、そもそもが歌芝居であるからである。歌芝居を排除すれば、ド イツ語で歌われる「オペラ」なるものは存在しなくなる。ドイツのオペラが歌芝居を脱して正真正銘の 「オペラ」となって発展を始めるのは、ヘーゲルの死後のことなのである。では、歌芝居とオペラの違 いはどこにあるのか。
通常、イタリア・オペラとは、全曲がイタリア語の歌とレシタティーヴォと管弦楽で通しで作曲されて いるものを指す。フランス・オペラはこのイタリア・オペラの影響下に発達したけれども、伝統的に、必 ずバレーを含んでいる。これに対してドイツ・オペラはもともとがドイツ語による歌芝居(Singspiel) であり、歌と歌の間にはレシタティーヴォではなく、散文の台詞が入る。イタリア・オペラとドイツ・オ ペラはそもそも構造が異なっているのである。モーツァルトの『フィガロの結婚』も『ドン・ジョバン ニ(Don Giovanni)』も、イタリア語で歌われるだけでなく、イタリア・オペラの形式に則っている。と ころが、同じモーツァルトでもドイツ語による『魔笛』や、ベートーヴェンの『フィデリオ(Fidelio)』、 ウェーバーの『魔弾の射手』は、つまり、ヘーゲルの生きていたころまでに作られたほとんどすべての ドイツ語による「オペラ」なるものは、単にドイツ語で歌われるだけではなく、歌と歌の間には台詞が あり、形式上はSingspielに他ならないのである。とりわけ、『魔弾の射手』の場合、筋書きの上では最 も重要な第2幕第4場の狼谷の場面では、オーケストラの音楽の上でほとんど台詞ばかりで芝居が展開さ れる。歌芝居ですらなくなっているのである(註33)。
だが、ヘーゲルはそうした音楽理論上の前提に立ってロッシーニを聴いていたわけではない。たとえば、 10月4日にケルントナートア劇場で上演された『雪(Der Schnee)』を、ヘーゲルは「ドイツのオペラ (deutsche Oper)」(Briefe III-71, Nr.483)と言うが、もともとはフランスの作品であるから、イタ リア・オペラと同じく通しで作曲され、かつバレーを含むような構造をもっていたはずだ。これをしも 「ドイツのオペラ」と言うのなら、それは、せいぜいが「ドイツ語の歌詞によるオペラ」という意味に しかならない。そして、これと正確に対応させるとすれば、「イタリアのオペラ(italienische Oper)」 も、「イタリア語の歌詞によるオペラ」ということになるしかない。ここでは、音楽それ自体の構造は まったく問題になっていないのである。
だが、イタリア語で歌われてさえいればイタリア・オペラだと、ヘーゲルが極めて単純に理解していたの かというと、そうでもない。9月26日のモーツァルトの『フィガロの結婚』についてのヘーゲルのコメン トには、期待が多少は裏切られたといった口調で、モーツァルトの作品にはイタリア人歌手の輝かしい 技巧を発揮できる余地がないのでは……と書かれていた。モーツァルトの音楽は、ロッシーニのそれと 比べると「より節度のある音楽」で、こういった音楽は技巧でもって飾るというわけにはいかない。こ のように理解しつつ、ヘーゲルはそれでもロッシーニの「フィガロ」の方を好きになるわけである (Briefe III-61, Nr.481)。
問題になっているのは、イタリア人歌手の声であり、声の技巧である。この「声」と「技巧」を生かす ことのできるイタリア語のテキストで歌われるオペラ、それが、ヘーゲルにとっての「イタリア・オペ ラ」である、と言うことができる。そうであるから、音楽としての内容の点で「節度ある」ものである モーツァルトの「フィガロ」は、音楽の構造としても、テキストがイタリア語である点でも、充分に 「イタリア・オペラ」であるにもかかわらず、ヘーゲルにとってはあまり満足のいくものではなかった、 と見るべきだろう。膨大な書簡のなかで評されているのは、ソプラノの某の声の素晴らしさであり技巧 であり、テノールの、あるいはバスの某の豊かな声であって、それ以外の批評は一切ない。ヘーゲルは、 歌手の声を聴きに足繁く劇場に通っていたのであり、イタリア人歌手の声を最も素晴らしく聴かせるの が、ロッシーニの作品だったのである。
そういうヘーゲルにとっては、オペラの筋書きであるとか歌詞の文学的内容であるとかは、どうでもよ いことであった。ロッシーニの音楽は、ここヴィーンのみならず、当時全ヨーロッパでもてはやされて いた。彼のオペラはベルリンでもパリでも上演されていたのである。だから、芝居の内容はオペラ通に は周知のことであったろう。ゆえに、書簡の中にテキストの文学的内容に関しての記述が一切ないのは それが周知のことだからだ、という解釈も確かにありえる。だが、書簡の中には、歌詞のこの部分のテ キストが、このような声と技巧でこのように歌われるのが素晴らしいのだ、といった評価すら一切ない。 むしろ、ヘーゲルは歌詞には無関心なのだ。周知だから書かないのではなく、関心がないから書かない のである。これはすなわち、ヘーゲルにとっては、イタリア人歌手の声や技巧が歌詞とはまるで無関係 である、ということに他ならない。歌手の声を聴きに劇場に行くとはこういうことだ。ヘーゲルは声を 聴いているのであって、歌を聴いているのではないのである。
しかし、これは文学的なテキストを伴った「歌」という音楽を聴く態度として正当なものだろうか。む しろ、純粋器楽曲を聴く態度にこそふさわしいのではないだろうか。だが、楽典に精通していないヘー ゲルは純粋器楽曲が苦手なのである。
ところで、ヘーゲルの美学体系の中では、音楽やオペラはいかなる位置づけを持つのであろうか。
弟子のホトー(Hotho)の編集になるヘーゲルの『美学講義』において、音楽は、主観的内面性の表現で あるロマン的芸術に属するものとされる。ロマン的芸術の第一段階は、直観的可視性にもとづく絵画 であり、第三段階は言語に媒介された詩である。音楽はこれら両者の中間にあって、音の抽象的で形式 的な組み立てによって主観的な内面性を表現する芸術とされる。人間の主観的内面性は、まずは目に見 える具象的な具体性をもって、絵画として表現される。これが音楽の場合、音という抽象的な媒介に取 って代わられることで、目に見えないものをも表現できることになる。しかし、それは抽象的であるが 故に、哲学的な要請からすれば克服されなくてはならない。言語によって媒介されることで、詩(ない しは文学)において主観的な内面性はそれにふさわしい表現を獲得する、ということになる(SK15-131 〜137参照)。
しかし、音楽がいかに抽象的であるとはいえ、音楽がそもそもは人の声によって歌われた「歌」であっ たのであるから、この芸術形式はその最初からして、言葉と結びついている。音楽という抽象的なもの を理解するすべとして、歌詞という文学的テキストに依拠することが行なわれる。歌とは、「音楽の精 神的な内容が、単に抽象的な内面性という形で、つまり主観的な感情として捉えられるのではなく、こ の内容が、表象によって形作られ言葉によって把握された音楽の運動の中へと入り込んでくる」(SK15- 190f.)ような音楽である。この場合、音楽は詩のテキストに随伴している。そこで、ヘーゲルはこれを 「随伴音楽(begleitende Musik)」(SK15-195ff.)と呼ぶ。通常の音楽用語ではBegleitungとは独唱や合 唱、あるいは器楽の独奏曲に対するピアノ等による「伴奏」のことをさすが、それは主旋律に対する和 声的な「伴奏」である。しかし、ヘーゲルの用語では、音楽が詩にbegleitenしているのである。一方、 この対極にあるのは、純粋に音楽的な手段だけで独立した「自立的音楽(selbst?ndige Musik)」(SK15- 213ff.)である。
両者はさしあたっては「声楽と器楽」(SK15-191)の違いとして現れてくるが、これを、使われている手 段が人の声か楽器かという違いである、と考えてはならない。そうであるなら、声楽が詩のテキストを 歌っているということの意味がなくなるからである。だから、詩の言葉と音楽とが密接に関連している のでなくてはならない。とはいえ、詩が文学として立派なものであってもならない。そうなってしまう と、今度は逆に音楽は余計なものになってしまうからである。したがって、詩と音楽との密接な関係を 追及した、ヘーゲルの同時代人であるシューベルト(SCHUBERT, Franz)の行き方は、ヘーゲルの主張とは 異なったものであった。ヘーゲル的観点からするなら、ゲーテ(GOETHE, Johann Wolfgang von)の詩はそ れ自体ですでに完成しているのであるから、それに音楽をつけるなどということは余計なことでしかな い。「詩に随伴する音楽」であるとはいっても、音楽が余計物であってはならない。むしろ、「テキス トが音楽に奉仕しているのであって、テキストは、作曲家が選んだ作品の特定の対象(テーマ)に対し て、それにふさわしい表象をあてがう、という以上の正当性をもたない」(SK15-192)。つまり、音楽が テキストに随伴しているとしか読めないbegleitende Musikという表現ではあるが、実際のところはテ キストが音楽に随伴しているのでなくてはならないのである。
それゆえ、「歌曲(Lieder)やオペラのアリア、オラトリオのテキスト等は、詩としての出来という点で は貧弱でもほどほどの代物でも充分である。音楽家に活躍の余地を与えるためには、詩人は詩人として の評価を求めてはならない」(SK15-147)。このように考えるヘーゲルが、イタリア・オペラの筋書きや 歌詞の文学的内容に関して一言も記述していないのも、当然である。これらに関心がないだけではなく、 そもそもたいした価値を認めていないのである。
モーツァルトの『魔笛(Die Zauberflöte)』の台本をヘーゲルが評価するのもこの点である。「『魔 笛』のテキストは惨憺たる代物だが、この駄作はオペラの台本としては賞賛に値する、といった馬鹿話 をしばしば耳にしはしないだろうか。シカネーダー(SCHIKANEDER, Emanuel)はありとあらゆる馬鹿馬鹿 しい作品、幻想的な作品、月並みな作品を物した後で、この台本において正鵠を射たのである。(この 台本の中に登場する)夜の王国であるとか、夜の女王であるとか、太陽の国、あるいは秘儀であるとか、 聖別であるとか、愛や試練や、これに伴う一般には立派なものだとされるような凡庸な道徳といった形 象――これら全ては、音楽のもつ深さ、その魅力的な美しさ、その魂とあいまって、聴く者の想像力を 広げ、かつ満たし、心を暖めてくれるのである」(SK15-147)。要するに、〈文学的には駄作だがオペラ の台本としては良い〉のではなくて、〈文学的に駄作であるからこそ最高の台本なのだ〉というのであ る。台本は荒唐無稽でない程度で音楽に素材を提供するだけでよい。《魔笛》ではこのバランスが絶妙 なのである。「合理的連関からはかけ離れた奇跡的なものや空想的なものや童話的なもの」(SK15-517f.) に満ち満ちたシカネーダーの「お粗末な」台本だからこそ、モーツァルトの音楽によって芸術的な完成 を見るのである。
音楽は必然的に演奏を伴う。詩人が作曲家に活躍の余地を与えなくてはならないように、作曲家もまた、 歌手に活躍の余地を与えなくてはならない。この点でもロッシーニは評価される。ヘーゲルは言う。 「イタリア・オペラでは歌手に多くの裁量が許されている。特に装飾音においてはそうだ」(SK15-220)。 ここで言う「装飾音」は、楽典に言う前打音やトリルといった音のことではなく、アリアの中に出てく るコロラトゥーラのことである。ロッシーニはこのコロラトゥーラの扱いにおいて絶賛されていたので ある。しかし、一般には「ロッシーニは歌手たちの負担を軽減させていると言われるが、それは一面の 真理に過ぎない。ロッシーニは歌手たちの自立的で音楽的な天才の働きを繰り返し求めているのである から、むしろ歌手たちの負担は重くなっているともいえる」(SK15-220)。だから、オペラの上演はその たびごとに新たな芸術の創造となる。ロッシーニの舞台を見る者は、「そこに芸術作品を見るだけでは なく、まさに目の前で実際に芸術が創造されているのを見る」(SK15-220)のである。こうした評価は、 妻宛の書簡に記されたKünstler、Compositeurs (Briefe III-56, Nr.479)という賛辞の延長線上に ある。聴衆は完成した芸術作品が舞台にかけられるのを聴いているのではなくて、芸術創造の過程を眼 の前にしているのであり、歌手は単に楽譜に指定された音楽を歌っているのではなく、まさに舞台の上 でロッシーニの音楽に乗せて、自らの音楽を創造しているのである。
しかし、実際の音楽体験が美学体系をはみ出していることの方が、問題としては重要である。オペラ三 昧の音楽体験を通してヘーゲルが聴いていたのは、歌というよりは歌手の声であり、その技巧であった。 この場合、歌われているテキストはヘーゲルの眼中にはなかった。そうであるなら、このように聴かれ た声楽は、もはや随伴音楽=begleitende Musikではなく、音楽的な形象のみで構成された自立的音楽と 大差はない。ヘーゲルは声楽を器楽曲として、歌手の声を一種の楽器として聴いていたのではあるまい か。この結論が正しいなら、彼の音楽体験は自らの美学体系をはみ出してしまっていることになる。
なるほど、ヘーゲルの言うとおり、音楽には絵画的な具象性も言語的な具体性もない。しかし、音楽に は、「聴く」ことによってしか手に入れられない音楽固有の具体性があるのではあるまいか。ヘーゲル が苦手とする自立的音楽=純粋器楽曲は、ヘーゲルにはとても「具体的」とは思えない音楽的形象を用 いて組み立てられたものであった。これを「具体的」と聴くには、音楽通でなくてはならない、とヘー ゲルは考える。しかし、ヘーゲルのイタリア・オペラの聴き方は、随伴音楽をテキストを手がかりに聴く といった聴き方では到底ない。むしろ、この聴き方は、自分では苦手と思い込んでいる純粋器楽曲の聴 き方に近い。ヘーゲルはイタリア・オペラの中に、それとは気づかないうちに、音楽固有の「具体性」を 聴いてしまっていたのである。この時点で、ヘーゲルの音楽体験は明確に美学体系をはみ出してしまう のである。
しかし、我々は21世紀初頭の現在から200年前のヘーゲルのオペラ三昧を見ているのだということを忘れ てはなるまい。ヘーゲルの知らないその後の音楽史の展開から振り返れば(建築史、絵画史、文学史等 の観点でも同じことが言えるのだが)、ヘーゲルが「つい最近になって発達を遂げたもの」(SK15-176) としてあまり重きを置かなかった純粋器楽曲こそが、19世紀の音楽史の主要なテーマであった。ヘーゲ ルはここではモーツァルトの名前しか挙げていない。ヘーゲルにとっては、ベートーヴェンはメロディ ーを無視して、通にしか分からない音楽的技法に固執する作曲家であり、これは音楽史の袋小路となる はずだった。しかし、現実はそうはならなかった。ヘーゲルが評価しなかったヴェーバーだが、ヴァー グナー(WAGNER, Richard)からリヒァルト・シュトラウス(STRAUSS, Richard)へ、アルバン・ベルク(BERG, Alban)へと続くその後のドイツ・オペラの基礎を築いたのはヴェーバーに他ならなかった。その一方で、 1824年にヴィーンで上演されていたロッシーニの作品の上演を観たいと思っても、ほとんどの作品は忘 れられてしまい、現在では楽譜を見ることすら困難である。オーケストラ・スコアは、パリのコンセル ヴァトワールやべネツィアのフェニーチェ劇場に保存されているロッシーニの自筆譜の写真版リプリン ト(註34)を見るほかはない。音楽の袋小路はむしろロッシー ニの方であった。
だが、ヘーゲルが取り扱いに苦慮していた純粋器楽曲や初期ロマン派のオペラは、まさにこの時期に発 展を開始したばかりの音楽であった。ヘーゲルがこれらの音楽の展開を見届けた後に美学を講義したな ら、いかなる体系構成を考えたであろうか。ヘーゲルの時代に発展を開始したジャンル、ヘーゲルの死 後にならなくては現れなかったジャンルを、ヘーゲルの理論枠組で解釈した場合、どのように位置づけ られるかを考えることで、ヘーゲル美学の有効性と射程を再確認することが出来るはずである。その意 味で、音楽体験と『美学講義』との乖離は、重要な事実なのである。
ハンスンは、当時のヴィーンの劇場に対する識者の評価が一様に低いことに言及して、その理由を次の ように考察している。多くの見聞者は高い教育を受けた外国人で、モーツァルトやベートーヴェンのよ うなドイツ音楽を聴くためにヴィーンにやって来たにもかかわらず、ヴィーンではロッシーニを初めと するイタリアものが大はやりであったために、失望したのだ、と(註35) 。ハンスンはこれを「過剰期待」と呼ぶが、ヘーゲルがそもそもこうした期待自体 を持っていなかったことは、特筆してよい。プロイセン王家の紋章が描かれた看板の宿に投宿するなど、 ミーハー的なナショナリズムを持っていたヘーゲルではあるが、「ドイツ音楽こそ最高!」といった音 楽上のナショナリズムないしは民族主義は、ヘーゲルのあずかり知らないものであった。
政治的なナショナリズムは文化的なナショナリズムの姿をとって忍び寄る。自国文化の再評価という原 理的には正しい態度が、排外的な政治上のナショナリズムという誤った方向へと道を開いてしまう。 「ロッシーニを好きだなどと、ミーハーな!」とプロイセンの文化人から顰蹙をかったヘーゲルは、ま さにミーハーであるが故に、結果的には、少なくとも音楽上のナショナリズムからは距離をとることが できたのである(註36)。
ケルントナートア劇場の上演ポスターの調査に当たっては、ヴィーン在住の武田倫子氏の御援助を賜 るとともに、専門的な御助言にも励まされた。末尾ながらここに感謝の意を記しておきたい。
2013/07/24