音楽とユーモア
Musik und Humor

『こころの科学』48号 日本評論社 p.74-79(1993年3月)


「音楽とユーモア」というテーマのこの一文をモーツァルトをダシにして説き起こしたならば、「また あのスカトロジーの話か」とお思いになる通人の方もいらっしゃることと思う。けれども、残念ながら そうではない。彼が書き残した実に尾篭な書簡やカノンの歌詞を考えるのは、もっぱらテキストにおけ るユーモアの問題だ。声楽の場合も、歌詞については、やはりテキストにおけるユーモアの問題だろう。 オペラなら、さらに加えて、舞台の上での演劇的な所作のユーモアも考察の対象となる。しかし、音楽 におけるユーモアとは、まずは、音楽という手段によってのみ可能なユーモアのことだ。だから、純粋 に音楽的な現象だけからユーモアを考えてみることにしよう。というわけで、何よりもまず音楽、なの である。

1 音楽の冗談

モーツァルトに『音楽の冗談 (Ein musikalischer Spaß) K.522』という作品がある。曲は、第一 楽章:アレグロ(ヘ長調・四分の四拍子)、第二楽章:メヌエット(ヘ長調)、第三楽章:アダージョ ・カンタービレ(ハ長調・二分の二拍子)、第四楽章:プレスト(ヘ長調・四分の二拍子)の全四楽章 からなる。楽器の編成は、ホルン二、第一ヴァイオリン一、第二ヴァイオリン一、ヴィオラ一、バス一 の六重奏である。彼の自筆の作品目録によれば、この作品は一七八七年六月十四日に完成されたことに なっている。しかし、作曲が開始されたのはもっと前で、完成したのも八月半ば過ぎと思われる。とも あれ、六月十四日といえば父レオポルトが死んだ二週間ほど後である。そのせいで様々に取りざたされ る曲ではある。けれども、演奏される機会は今ではあまりない。なにしろ、現代人の耳には、冗談であ ることがはっきりわかる箇所はそれほど多くはないのである。

 明かに冗談とわかる所を列挙してみよう。

まず、第二楽章メヌエットの十六〜二十小節のホルンのフレーズ(譜例1)である。音を外してしまっ たホルンを真似してみせるためであろう、ホルンのパートにはフラットやシャープが幾つも付けられて、 珍妙な響きになっている。当時のホルンは、弁を持たず、自然倍音だけで音階を演奏する楽器であった。 ブラームスが『ホルン三重奏曲 (Op.40)』で使用を指定しているのはこのタイプのホルンである。こう したホルンは、必要な箇所で必要な音を必要な音程で正確に吹くのが大変難しいのだそうだ。ただでさ え音が外れる。まして下手くそな奏者ならなおさらである。モーツァルトはこれを皮肉ったらしい。と いうことは、大変な名手が、しかもモーツァルトの書いた楽譜通り正確に「不正確な音」を出さないと、 この箇所は面白くも何ともない。始めから音を外している凡庸な奏者が演奏したのでは、この曲は冗談 にはならないのである。


譜例1

次に目立つのは、第三楽章アダージョ・カンタービレの六十三小節目から始まる第一ヴァイオリンのカ デンツである。十小節以上にもわたる第一ヴァイオリンの独奏は、長たらしくはあるが全く正統的な、 一見ヴィヴァルディの協奏曲を思わせるような典雅な曲想で終るかと思われたその最後、ハ長調の上昇 するスケールが完全終止へ向かって上り詰める部分で、突如出現する四つのシャープのために音階を狂 わされる(譜例2)。


譜例2

そして、極め付きは終楽章の終止(譜例3)である。すべての楽器が全部違う調で終る。ホルンはヘ長 調、第一ヴァイオリンはト長調、第二ヴァイオリンはイ長調、ヴィオラは変ホ長調、バスは変ロ長調、 といった具合だ。ここではオクターヴの十二の半音が全部一度に鳴り響いてしまう。


譜例3

これらの三箇所は、明かに珍妙であるから、聴けばすぐにどこか変だとわかる。しかし、仮にも『音楽 の冗談』をタイトルとする以上、しかもこれは他人の命名ではなくて、モーツァルト自身が自筆譜にも 書き込み、自筆の作品目録にも書き込んだタイトルであるのだから、全曲を通してたったこれだけとい うことはないはずだ。事実、スコアを仔細に分析すれば、珍妙な所はもっとたくさん出てくる。しかし、 それは仔細に分析すればの話である。

たとえば、第一楽章の第一主題が通常の八小節ではなくて七小節であるとか(譜例1)、第一主題のヘ 長調に対して第二主題は定石通りハ長調であるが、このハ長調を導くためのHの音が余りに早く鳴りす ぎるとか、展開部の転調が不自然であるとか、あるいは終楽章のフーガ主題の扱い方が下手くそである といったことが、ものの本には色々と書かれている。全曲を通して見ても、転調の不自然さ、調性の曖 昧さについては、多くの識者がこぞって指摘するところである。禁則の平行五度が多用されること、繰 り返しが多すぎること、第一楽章と終楽章が短すぎて全体のバランスを崩していること等々、なるほど 言われてみればその通りではある。しかし、これらの点は、理論家が言うほど珍妙なものだろうか。耳 で聴いてすぐにわかるほど明瞭なものだろうか。余りにも明白に可笑しいので笑ってしまうというほど の冗談だろうか。なにしろ、我々の耳は、ロマン派はおろかシェーンベルクやストラビンスキーの洗礼 をさえも受けた耳なのである。


譜例4

どうやら、モーツァルトの冗談につきあって一緒に笑うためには、十八世紀末のヴィーンの音楽様式を 共有している必要があるようだ。そうでなければ、冗談を分析することはできても、冗談で楽しむこと などできそうもない。解説してみせるのが阿呆らしいのは、なにも駄洒落や漫才に限ったことではない のである。

2 様式とそれからの逸脱

こうして明らかになってくるのは、純粋に音楽的な手法としてのユーモアは、時代の様式の共有とそれ からの意図的な逸脱によって可能になる、ということである。様式を共有しているからこそ、そこから の逸脱が笑いになる。したがって、逸脱という破壊的な振舞によって喚起される笑いではあるけれども、 この笑いはけして様式を否定するものにはなりえない。しかし、音楽におけるユーモアが様式を肯定し 墨守するだけのものでもないのは当然である。様式を墨守するだけの者にとっては、逸脱は許し難い破 壊であって、けして笑えるものであるはずもないからだ。ここには、音楽におけるユーモアのアイロニ カルな性格が現われている。ユーモアは音楽の「通」にしかわからないのである。それも、世間を斜に 構えて見る屈折した教養人である「通」にしか。

この性格のゆえに、逸脱は二つの異った方向で達成されることになる。その第一は、時代の様式を価値 尺度として、この基準を満たすことのできない凡庸な音楽家に向けられる風刺である。先の『音楽の冗 談』の例で言えば、下手くそなホルン吹きをからかうメヌエットのフレーズや、思い入れの余りに音程 を外すヴァイオリンのカデンツがそれである。モーツァルトの『音楽の冗談』は、別名を『村の楽師の 六重奏』ともいう。これはモーツァルト自身の命名ではなく、後代の別人による命名なのだが、この別 名を付けた人間は、作品の意図するところをそのように理解したのであろう。つまり、下手くそな演奏 家を笑っているのだ、というわけである。このように理解する者は、当然のように、自分を笑われる側 ではなく笑う側に位置付けている。しかし、こうした傲りは、作品自体によってしっぺ返しを受けるは ずだ。そこに、逸脱の第二の方向が浮かび上がってくる。

その第二の方向とは、作曲家自身の理想を価値尺度として、この基準を満たし得ない時代の様式を笑い 飛ばすという、正反対の方向である。このように見た場合、『音楽の冗談』はモーツァルトの美学を裏 返しのかたちで示した作品だ、ということにもなる。『音楽の冗談』の中に、宮廷楽長サリエリの作品 の響きを聴くこともできる。あるいは、父レオポルトに近い響きを聴くこともできる。そこで、『音楽 の冗談』は、自立する音楽家モーツァルトの行く手を阻む既成の権力・権威に対する反抗であるとも考 えられる。この作品の主題は、すでに忘れ去られてしまった当時の作曲家の作品からの引用だ、という 見方もある。『音楽の冗談』は、同時代の凡庸な作曲家や権威を揶揄する作品でもあるのだ。けしてモ ーツァルトの高みにまで達することのできないのが一般人であるとするなら、凡庸な作曲家を筆頭にす べての人は、モーツァルトに笑われていることになろう。凡庸な演奏家を笑う側に自らを位置付ける者 は、そういう自分が同時にモーツァルトから笑われていることに気付きはしないだろう。笑っている当 のモーツァルトにしても、自らの才能が正当に評価されていないという欝屈した思いからの笑いである かもしれない。ユーモアとは、このようにも屈折したものなのである。現代人はもはやモーツァルトの 冗談につきあって一緒に笑うわけにはいかないというのは、実は幸せなことなのかもしれない。

3 冗談の技法

様式からの意図的な逸脱を実現する代表的な作曲技法はといえば、それは「引用」であろう。それも、 本来の意味を意図的に捻曲げた引用である。「意図的に捻曲げた」と但し書きをするのは、真面目な引 用もありうるから、否、本来は引用は真面目なものであるからだ。カトリックの教会音楽では、グレゴ リオ聖歌の編曲や引用こそが正しい音楽技法であった。ルネサンス以前のミサ曲にははっきりとグレゴ リオ聖歌を聞き取ることができる。ルター派の教会音楽でも同様で、宗教音楽はコラールの引用と編曲 から成り立っていたのである。バッハのカンタータを見れば一目瞭然であろう。バッハは多くの世俗曲 を後に教会音楽に転用している。音楽学者はこれを「パロディー」と呼ぶが、けして「滑稽な」という 意味ではない。とはいえ、真面目な引用にも捻曲げた引用にも、ともに備わっていなくてはならない共 通の大前提がある。それは、引用される当の作品が有名でなくてはならないということである。何が引 用されているのかわからなければ、敬虔な気持ちにもなれなければ、爆笑もできないからだ。『音楽の 冗談』における冗談がよくわからないのは、この中で皮肉られている当時は誰もが知っていたはずの常 識的音楽語法が、現代の私たちにはけして常識ではなからでもある。

さて、引用によるユーモアの典型的な例としては、サン=サーンスの組曲『動物の謝肉祭』をあげるこ とができよう。だいたい、人間や音楽を動物に見立てるという趣向自体、実に人を食った作品ではある。 第四曲の「かめ」など、オッフェンバックの喜歌劇『天国と地獄』の中の有名な曲をアンダンテ・マエ ストーソというゆったりしたテンポで演奏するというだけの曲である。第十一曲「ピアニスト」はツェ ルニーの練習曲である。次の第十二曲「化石」では、三曲のフランス民謡にロッシーニの歌劇『セビリ アの理髪師』から「ロジーナのアリア」、さらには自作の『死の舞踏』まで出てくる大盤振舞いである。 引用されている曲は、どれも大変有名な曲ばかりである。そこに笑いと風刺が生まれる。

ところで、面白いのは、第十一曲「ピアニスト」にある演奏上の指定である。二台のピアノのパートに は、「初心者が弾くようにつとめて下手に弾くこと」という但し書きが付けられている。こうした演奏 上の指定は、実はモーツァルトの中にも見られる。一七八七年五月の父の死の直前に書かれた歌曲『老 女 (Die Alte) K.517』には、本来なら速度や発想についての指定が書かれるはずの楽譜の冒頭に、「ち ょっぴり鼻にかかった声で」という演奏上の指定が書き込まれている。こういった指定は、演奏のスタ イルや発声法にも時代の標準があって、これを意図的に逸脱せよという指令である。『音楽の冗談』に おけるホルンやヴァイオリンの調子っぱづれな音は、こうした演奏上の指定を音符のかたちで楽譜に書 き込んでしまったもの、といえるかもしれない。

4 自立的音楽?

しかし、純粋に音楽的なユーモアの考察という私の一文の当初の目標が、演奏上の指定という問題をめ ぐって踏み越えられてしまっているのにはお気付きだろうか。

作品としてはいかにユーモアに満ちたものであれ、聴衆からの笑いを獲得するには、実際に演奏されね ばならない。それゆえ、演奏上の指定は、演奏スタイルという純粋に音楽的な問題に関わるものではあ る。けれども、これがまた同時に舞台上での演技の問題へと転じもする。先ほど例にあげたモーツァル トの歌曲『老女』に出てくる「鼻声で」という指定は、現在では、彼の歌劇『魔笛 (Die Zauberfl|te) K.620』の中で、パパゲーナが老女の姿で最初に登場する場面での台詞の語り方に踏襲されている。『魔 笛』のスコアにはこのような語り方の指定はない。とすれば、これは、最初は老女の姿で登場するパパ ゲーナが次の登場場面で突如老女から若い娘に変身するのを、劇的に表現するための演出上の措置と考 えられる。さきの例では音楽的手段であったものが、こちらでは演劇的な手段へと転じている。これで は、純粋に音楽的な現象だけを抽出することで音楽に固有のユーモアを分析しようという試み自体が不 可能だ、ということになりはすまいか。

私が純粋に音楽的な現象にこだわるのは、純粋に音楽的な手段のみで自立した音楽をハイドンとともに 創始したのが、他ならぬモーツァルトその人だからだ。

音楽の自立は、二つの面を持っていたはずである。第一に、教会のミサや宮廷の儀式のためのBGMで はなく、音楽それ自体が独立した独自の芸術的価値を持つものだ、という意味での自立である。この自 立は音楽と音楽家の社会的な役割・地位を変え、音楽家の生活を変えた。音楽を聴くためだけに人々が 集る音楽会が成立する。第二に、そうして成立する音楽会において演奏される独自の芸術的価値を持っ た音楽ジャンル・音楽作品の創出、という意味での自立的音楽の成立である。交響曲と弦楽四重奏とは こうして成立・発展した。十九世紀に入ると、「独自の」価値とは、作曲家の個性であり、彼の主観的 感情であり、主観的な思想(何たる形容矛盾!)であると主張されるようになったのである。

しかし、純粋に音楽的な現象だけから音楽のユーモアを分析することが原理的に不可能だとなれば、十 九世紀のヨーロッパ音楽を特徴付ける「自立的音楽」という理想自体が自己矛盾に満ちているというこ とになるはずである。とはいえ、この問題は、このような小論で論じつくせるものとも思えない。稿を 改めて詳論するのが正解であろう。

おわりに

一九九二年十二月十一日の毎日新聞朝刊の「私見/直言」の欄に掲載された、『「楽しくないぞ」クラ シック音楽』と題する桐朋学園大音楽学部の平吉毅州教授の文章はお読みであろうか。平吉教授は次の ように指摘される。最近のクラシックコンサートはつまらないが、それは演奏者の音楽的能力が低いせ いだ。「ピアノ専攻の学生はピアノのことしか頭にないし、バイオリン専攻の学生で、自分の弾くバイ オリンソナタの和声構造を確認できる程度にピアノが弾ける者はほんの一握りに過ぎない」。音大のピ アノ科の学生の大半が、バイオリンの開放弦の四つの音が何かを知らず、ギターの弦は何本あるかを知 っていたのはほんのわずか。これでコンサートが楽しくなるわけがない、というのである。

これが現実なら、以上に私が述べてきた「様式とそこからの逸脱」といった音楽的ユーモアの構造など、 全く意味のないことなのかもしれない。なにしろ様式以前の無教養なのだから。案外、こっちの方こそ、 音楽におけるユーモアの最たるものだったりして……何たるブラック・ユーモア! おぉ怖。

ところで私はといえば、何でまた、「音楽とユーモア」と言われてすぐにモーツァルトを思い出したり したのだろうか。どうして民謡や義太夫や歌舞伎ではなかったのだろうか。これこそ滑稽なことである なずなのだが、内情を暴露すれば、私は日本の古典音楽については分析するほど詳しくは知らないので ある。ユーモア以前の無教養。いや、情けない。


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2013/07/24